CEO INTERVIEWS

起業家インタビュー

Vol.34
2014年12月25日
株式会社マナボ | 代表取締役社長  三橋 克仁 氏

株式会社マナボ
代表取締役社長 三橋 克仁 氏

この事業がやりたい。
失敗して無一文なるかもしれない、何者でもなくなってしまうかもしれない。
ずっと考えているうちに情熱が恐怖に打ち克った。

はじめに

『起業』
大学卒業後のキャリアパスにこの道があることをより鮮明にする人がでてきた。
三橋さんは大学院在学中 、有名コンサルファームのオファーを辞退して起業の道を選んだ。
その話を聞いたとき、本当にそんな人がいるのか? 
それが率直な私の反応だった。

新卒学生にとって、アーサーディーリトル(ADL)やボストンコンサルティンググループ(BCG)からのオファー獲得は就職活動をする学生にとっては最難関の1つだ。ネット上の就職偏差値では数字を超えて『神レベル』と言われることもある。

それを辞退して『起業』を選ぶ学生が出てきたというのは、新たな時代に突入したと思い、私は三橋さんという方にどうしても会いたくなってアポを取った。

実際に会ってみるとやはりとても頭の回転が速く、話も面白く、、というところまでは予想通りだったが、そのような方にありがちな傲慢で生意気で、、というところはまったくなく、とても礼儀正しく、謙虚な方であった。

そんな三橋さんが悩みに悩んで決めた進路は・・・『起業』。

どのようなプロセスを経て、『起業』という選択肢を選び、今に至っているのか。三橋さんに迫りました。

株式会社マナボ
代表取締役社長 三橋 克仁 氏
(みはし かつひと)

【経営者略歴】
1987年生まれ。東京大学工学部卒・同大学院工学系研究科修士修了(機械工学専攻)。 高校1年生の時に高校3年生に対して数学を教えるなど、個別指導キャリア7年超。 IT×教育分野の可能性を感じ、貧困家庭の出自を勉学で切り開いた原体験を活かし、効率的な“学び”を通じて人々がより幸せになれる社会を夢見て、大学院在学中にmana.boの構想を開始する。 プログラミング経験豊富で、mana.boのプロトタイプ開発者。 2012年12月、内定先だったボストンコンサルティンググループ,アーサーディーリトルのオファーを辞退し、mana.bo開発に専念。 2014年4月より「リアルタイム家庭教師」サービスを開始。

  • 事業分野

    教育・Edtech

  • 事業内容

    スマホ家庭教師「mana.bo」の開発、運用

  • 設立

    2012年4月17日

  • 社員数

    13人(2014年10月時)

  • 企業URL

    https://mana.bo

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起業家紹介

三橋 克仁 氏

親の絵を売ったお金で塾に通った中学時代

株式会社アマテラス:三橋さんの生い立ちについて教えていただけますか?

株式会社マナボ三橋社長(以下三橋):親父が画家で彼が25歳ぐらいの時にフランス語が喋れない状況で絵描きになると言ってフランスに飛び立ち、そのまま15年ぐらいずっと画家をやっていました。

フランスで結婚して、僕が生まれるので日本に戻って来ました。日本で画家として食べていくのは厳しかったようで、極貧までいきませんが小中学生の時は、おかずがあまりなくてお米ばかりの食事で過ごしました。

宇宙飛行士になるのが小学生の頃からの夢で、そこが僕のもともとのハングリー精神ですね。宇宙飛行士になるために何が必要かと考えていました。

中学は地元の公立で割とヤンキー校でしたが、まぁ僕はそこまでではなかったです(笑)、
高校行くにあたって、国立の筑波大附属高校に進学しました。『筑波』という名前が宇宙っぽいという理由があって(笑)。

学費的に私立は行けなかったので、公立、現実的には国立が学力も高いし学費も安いので、そこしかないと思ってそこを受けました。
独学で勉強していましたが、「これは塾に行かないと厳しそうだな」と判断して、中3の時に塾をいろいろ回って、市進学院がコスパのいい塾だということで親に打診したら、当然断られたんです。それでどうしたかというと、親父の絵を校長先生に営業かけて売って、それを軍資金にして塾に行きました(笑)。

中学の頃は野球部で代表をやっていて生徒会もやっていたので、校長先生とはすごく仲良くて、僕に目をかけてくれていました。
当時、うちにある資産はそれぐらいしかないだろうみたいな判断です。
それで100万円くらいの軍資金が入ったので、市進学院という塾に行かせてもらいました。

ちょうど早稲田アカデミーが『開成必勝コース』というコースを立ち上げた年でした。僕が市進学院で成績がそこそこ良かったので早稲田アカデミーから声がかかって、お金がかからず学ばせてもらえるのでしたら是非、ということで行きました。開成は私立なので受かったところで行けないのですがそのコースに通わせてもらっていた手前、数字に貢献しなきゃということで受けました。そして開成高校には合格することができましたが辞退して筑波大附属高校に行きました。

高校時代は野球部で基本ずっと野球していました(笑)。

東大で株式投資サークルに入り、リーマンショック発生

三橋:大学は、東大の航空宇宙工学科が、やはり宇宙飛行士になるためには一番確率が高そうな場所だったので、理科一類に入って、ロシア語を選択しました。
宇宙飛行士になるには英語はもちろん必要ですが、英検でいう2級レベルぐらいのロシア語、ちょっと話せるレベルのロシア語も必要になります。

宇宙飛行士サークルに入るのですが、当時2006年はホリエモンがフィーバーしていた時代で、もともと金銭的な関心もあったので株式投資サークルにも入りました。そうしたら株式投資のサークルの人のほうがすごく馬が合ってそちらにのめり込んでいきました。

その株式投資サークルの繋がりで、株式会社ウィルゲートの吉岡さん(現専務取締役)と出会いました。僕が大学1年時に、彼は2年生で渋谷で会社を起こされていた。ほぼ同い年の大学生ながら起業していた吉岡さんにとても興味をもってウィルゲートのインターンに参加させてもらい、彼からIT技術を教えてもらいました。その頃の自分の技術がどれぐらいだったかというと、もうUBSとUSBの違いがよくわからないみたいな(笑)、そのレベルでしたが本当にイロハをたたきこんでもらいました。

僕は大学に入ってちょっと浮かれていましたが、吉岡さんのような人を見て「すごい人はこんなことをやっているのか」と驚き、スタートアップの世界に興味を持ち始めたのが大学1年生の頃でした。

株式投資のサークルでどんなことをしていたかというと、大学生が集まって5万円ずつぐらい出し合って、小さいファンドを作ります。そのファンド資金で、市場に出ている銘柄に月曜日の朝成りで買いを入れて金曜日にエグジット(売却)する、その1週間のスイングトレードの中でちょっとした利益を出しつつ、どの銘柄を買うかを土日に議論することによって知見を高めましょう、そういう活動をしていて面白かったですね。

経済学部の人のほうが当然知識は豊富です。僕は唯一理系だったので、どうやってそのチームにプラスの影響をと考えた時に「トレーディングシステム作ろう」と突然思いつきました。
大学1年生の夏に2カ月ぐらい引きこもって、トレーディングシステムというと大げさですけど、買おうとしている銘柄を過去20年間ぐらいのデータを見て、その条件下だったら何パーセントの確率で利益が出る、というような過去の統計データを取ってくる。そういう仕組みを、エクセルのVBA(VisualBasic for Application)で作りました。それが結構いい成績が出て「プログラミングってすごい、こんなことができるんだ」ということを初めて経験しました。

そのシステムがそこそこワークして利益貢献したこともあり、株式投資サークルの代表が僕に100万円ほど貸してくれました。その資金をもとに信用取引で投資して元手をどんどん大きくしていきましたがそこでリーマンショックが起こりました。過去100年来の下げです(笑)。

僕の作ったシステムは、株価が下がったタイミングで買いを入れるという逆張りのシグナルが発生するものでした。リーマンショックが起こった時に、もうこれは買いシグナルがものすごい出ました(笑)。

どんどん買っても、まだまだ下がることになって、、
というのを経験して、大学2年生の頃に一旦その100万を返して、ちょっと冷静になって考えました。
サヤを抜いて利益を出すというスタイルの貢献の仕方に、僕はそんなに人生賭けられないかなと思い至りました。

そこでしっかり勉強しようと思い、とりあえず大学院に行くことを志しました。

東大大学院へ入学した4月1日に休学してベンチャービジネスの世界へ

三橋:東大の大学院に入る前にある会社が僕に声をかけてくれました。教育とITのクロスドメインで『東大ノート』というサービスをやろうとしている会社でした。

僕は予備校講師をしていたので教育と多少のIT知識と東大生だったというところで声をかけてくれて、その責任者的な立ち位置をつけてもらいました。社員とほかの学生をつなぐイメージですね。

企画、開発、サービス解析、営業など一通りのサイクルを任せてもらえましたし、とても興味を持てる事業だと感じました。中途半端にしたくなかったので、そちらに集中することにしました。

そして大学院に入学した4月1日に休学しました(笑)
当時、大学院でどういう方向を目指すのかを明確なイメージを持てていなかったこともありました。
教育・ITのクロスドメインであれば自分のバリューが発揮できるし、情熱を傾けられるし、市場としてもすごく大きくなっていくと肌感覚で感じることができました。この分野で自分も事業を起こしたいと素直に思いました。でも、このサービス自体はそんなに大きく弾けたわけではありませんでした。

株式会社アマテラス:『東大ノート』はどのようなサービスですか?

三橋:昔、『東大生が書いたノートは必ず美しい』という本が流行ったのですが、東大の学生たちは必ずしも美しくはないとわかっていて、そのコンテンツで学力が上がるかどうかもわからないですが、引きがあるコンテンツということは感じていました。なので、WEB上に東大生の美しいノートをスキャンして、データとして提供することでトラフィックは掴める。
それを見に来る人たちは学力を上げたいという特性を持っているので、実際に学力を上げるようなコンテンツを追加してWEB上で提供していこうというものでした。

予備校業界は9000億くらい市場規模がある中の1000億ぐらいを広告に投下しています。東進ハイスクールのCMとかバス、電車などの交通広告がたくさんあるようにその広告費の内訳の95%ほどがアナログ、つまりIT、WEB以外で使われています。残りの5%しかないIT・WEBの部分は、今後もっと大きくなりうる。今5%しかないのは、ターゲット層が集まってくるWEB上の場所がないからだろう、そういう場所をしっかり作れば広告効果としてものすごい価値を持つのではないか、という仮説があって、SNSを活用したWEBサービスを作ろうという方針で動いていました。

ですが、実際には数万人ぐらいしかユーザーは取れなかった。会社としてはこれ以上このサービスに突っ込まないと決めました。この事業をやりたいということで休学していた手前、そのサービス差し止めが決まって、まあ僕は僕でいい経験だったということで、大学院に戻る決断をしました。

ただこの事業にすごく興味をもちました。いつかこの事業領域でサービスを立ち上げることを心に決めて、みなし法人を作りました。
みなし法人という体で、自分の家に仲のいい友達を誘って予備校のホームページの改修やドメイン更新のサポートなどをしていました。

当時の予備校側はITに関心がありましたがIT知識はあまり持っていませんでした。自分達のITスキルは決して高くはなかったですが営業しに行ってITの提案すると仕事をいただけました。

予備校さんとの仕事を通じて技術を磨きつつ、人集めもして、教育ITのドメインで何か仕事がないかなと仲間と考えました。ちょうど大震災が起こった2011年3月の頃から半年ぐらいの頃です。

自宅をオフィス兼用にしてこんな雰囲気(↓)の中で開発をしていました。その時の僕は事業一本で行こうと腹をくくってはいなかったですね。

有名コンサルティングファームから内定獲得。と同時に教育ITビジネスが進展。

三橋:当時、大学院1年生だった頃のキャリアイメージとしては、卒業後、コンサルティングファームに行こうと思っていました。そして、海外でMBAを取得して日本に帰ってきて満を持して起業をすると。
今やりたい領域があって、プロダクトを作れる機会があるので今のうちに前哨戦としていろいろやってみよう、そういうカジュアルな気持ちで、この事業をやりつつ、大学院に通い、就職活動というこの3つをやっていました。

大学院1年生の夏から受けていたコンサルティングファームのインターンで、アーサーディーリトル(ADL)とボストンコンサルティンググループ(BCG)からオファーを頂きました。

オファーをもらった直後の2012年4月に、当時すごく気に入っていた『数式認識エンジン』というサービスを提供するフランス企業の副社長がたまたま日本に来ているという情報を掴み、突撃訪問しました。

『数式認識エンジン』とは、人の書く文字や数式をiPadタブレットやアンドロイドスマートフォンなどにリアルタイムに取り込む手書き文字認識テクノロジーです。

指導している最中のホワイトボード画面にその数式認識システムを統合できたら、普通のホワイトボードのシステムと違って、教育向けに特化できるのではないかと考えていました。アナログの文字データをデジタルとして管理することで、例えば、1年後に学んだ内容を復習したいと思った生徒がそれを使って復習ができたり、先生も毎年毎年同じことを生徒から聞かれますがそれ一々指導で教えるのではなくて、データとして持っておいて、そのアーカイブしたものを出すだけでよいなど、教育IT分野で活用できます。

大学院の時に、手書き入力とかデジタルペンとか数式認識というあたりを研究対象としていたのですがこの技術ではそのフランス企業が世界で一番でした。

そのフランス企業は本来東芝さんなど大企業と取引をするような会社ですがそこの副社長を突撃訪問してプレゼンしたところ、アイデアを結構気に入ってくれて「うちはそういうことをしてないけど、お前のところは面白そうだから、レベニューシェア(パートナーとして提携し、相互の協力で生み出した利益を決めておいた配分率で分け合うこと)で契約しよう」ということになりました。

契約を締結するために組織を急いで法人化しました。

それが人生初の英語交渉と法人登記でした。

シリコンバレーに行き、やりたいことで勝負したいという気持ちが湧き上がる。

株式会社アマテラス:教育ITビジネスを進める中、就職時期が近づいてきます。どのような心境だったのでしょうか?

三橋:すごく悩んでいました。そんなタイミングで友人がビジネスコンテストを主催していて、「出てみないか?」と誘われ、出てみたら入賞して、シリコンバレーに行かせてもらいました。

Facebook、Twitter、Google、Evernote、スタンフォード大学…今までずっと話に聞いていた世界に実際に身を置いて「ああ、ここでこの人達がこうやって生きているんだ」と、すごくリアリティーが湧きました。
よく話に聞いていましたがアメリカではトップ層の人は自分で事業を起こすということも「ああ、こんな感じなんだ」とすごくわかったんですね。

僕も自由な空間で伸び伸びとやりたいと思ったことを全力でやりたいというのが、何かふつふつと湧いてきました。それが結構大きかったと思いますね。

このタイミングで、彼女と別れました。もともとコンサルに行きたいと思っていた理由は、その彼女と結婚して子どもが生まれるからMBA留学の時期を計算して、、そういうことを考えていましたが、それがなくなった。

「今ここでリスク取って勝負してもいいかな」、そういう感覚になってきました。

コンサルティングファームへの就職が守りになることではないのですが、その先がある程度保障されるじゃないですか。でも、この事業を起こすのは相当なリスクだった。
当時、2012年夏の時期は手伝ってくれていた学生はいましたが、実質自分だけのような状態でした。

もしかしたら自分が「やるぞ!」と言っても誰も付いてこないかもしれないし、かつ、プロダクトも特にできているわけでもなければ、ファイナンスも決まっているわけでもない、という状況だったので、オファーを頂いているコンサルの内定を断って事業に突っ込むかといったら、相当なリスクでした。

3カ月近くすごく迷っている時期があった。その時期が、一番精神的には参っていた時期です。ずーっとずーっと悩んでいました。

気持ち的には事業をやりたいんですよ。この時点ではマナボのプロダクトイメージは湧いていました。このビジネスであれば、資金調達も何とかなるのではないか、というふわっとした自信もありました。

でもビジネスをやるのであれば、自分の中で区切りをつけて、内定を全部断って「俺はこれで行く」と決めなければだめだなと思っていました。

株式会社アマテラス:起業の決断を後押ししたものは?

三橋:最終的に『Mement mori』という言葉、ラテン語で『死を思え』という言葉です。
MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボ准教授の石井裕さんという方がいて、その方はiPhoneのタッチインターフェイスの原型を作った方で、個人的にすごく好きな方なのですが、その人がどこかで言っていた「死を思え」という言葉をふと思い出しました。

“Mement mori“ 死を思え。
この言葉からいろいろ想起できますが、いずれ死ぬんだから自分のやりたいことを好きなようにやるのがいいんじゃないか、そのために全力で今を生きるんだ、というメッセージとして僕は受け取った。

最終的には情熱が打ち克ちました 。この事業をやりたい。ここに自分の思いを注ぎ込んでいきたいという気持ちが、もしかしたら失敗して無一文になるかもしれないとか、何者でもなくなってしまうかもしれないみたいな恐怖に打ち克った。ずっと考えているうちに情熱が恐怖に打ち克った、そういうタイミングがありました。ノマドワークスタイルを提唱する安藤美冬さんが、「情熱が恐怖に打ち克った」というフレーズを使っていましたがまさにそれだなと思いました。

この“Mement mori“という言葉とか、“自分の中に毒を持て“(岡本太郎 著)という本を読んでいると、情熱のままに生きろ、打算じゃなくて、本当にやりたいんだったらリスクどうこうとかじゃなくてその道に進め、そうじゃないと生きていると言えないだろう、そういう感覚になります。

「何で俺は生きてるんだっけ?」ということを考え始めた時に、今ある安全な道を選んだ先の人生に自分は満足するかどうかと聞いたら、素直に『NO』となったんですよね。
それは多分、画家の親父ときっと近いと思いますが、自分のやりたいことをやってそれで失敗したらもうドンマイだろうと、そういう感覚になったんです。

僕は生き方が割とアウトローじゃないですか(笑)。メロン栽培じゃないですけど、温室育ちで来たぼんぼんの東大卒みたいな感じじゃなくて、割とアウトローから来たというタイプ(笑)。

それで、「よし、これで行く」と決めて、すぐ内定オファーをいただいたコンサルティングファームに電話して内定を断りました。

この決断は論理的か直観的かというと直感的ですね。自分を納得させようと思って論理を積み重ねることはできるのですが最終的に意思決定する時に、論理的に自分を説得するって人を説得するのより難しいですよね。

激しい言い方ですけど、これがだめだったらもう死んでもいいぐらいの感覚ですよね、本当に。これでだめだったら、もう俺は人生守りに入らずにきれいに散ればいいぐらいの感覚を最終的には持って、それで意思決定しました。

ゼロから考えると、多分いい大学に行かせてもらったから、自分は結果的に守りに入っていたと思います。でも、小中学校の頃の本当に何もないただの少年Aだった自分を思い出した時に、自分はそもそも何でもないんだから、別に東大入った、出たぐらいの、コンサルで働いたぐらいのもので守りに入っていたら、もうそのレベルで止まる。

だったら、守るものは何もないんだと思えた時に、本当に歴史に名を刻めるぐらいの、もしかしたら世界を1歩前に進める何かができるかもしれないその可能性に人生賭けたほうがいいんじゃないの、面白いんじゃないの、そのほうが何か生きてる感を味わえるんじゃないの、そういう感覚なのかなと。

予備校の空きスペースから事業スタート

株式会社アマテラス:いざ事業開始すると資金や仲間集めという問題がでてきますがこのあたりはどうされたのですか?

三橋:最初は手弁当でスタートして、普通にお金払ってオフィスを借りることができなかったので予備校の空きスペースを間借りさせてもらいました。
「僕が講師とかやるので場所貸してください」とお願いして予備校に住まわせてもらいました(笑)。

うさぎ小屋のような本当に狭い部屋でひたすら自分でコード書きながら、サービスの原型を練りながら、みたいなことをやっていました。

やるぞと決めたら、もともと手伝ってくれていたメンバー二人が迷った末に来てくれることになりました。今のCTOは有名ITベンチャーの元エンジニアで、サービスのプロトタイプを作るにあたって支援してくれていた人も来てくれました。

その4人の創業メンバーでこういう事業でやります、ということをベンチャーキャピタルのサイバーエージェント・ベンチャーズの林口さんに説明しにいって初めの資金調達ができました。2012年12月にやるぞ、と意思決定して2013年5月に 着金までたどり着きました。

今はMITの博士卒の人や、頓智ドットという世界的なベンチャーでCTOをしていたメンバーなど本当にすごい人が来てくれています。

昨年、2013年の夏には、マナボ事業のニーズに手ごたえを感じはじめることができました。その夏に有料サービスもリリースしたところ、結構いい数字が出て、社員規模も増やしつつあり、15人弱ぐらいになりました。

そしてやっと2013年9月に大学院を修了しました(笑)。

予備校内に間借りしたオフィス

株式会社アマテラス:よく大学院修了できましたね(笑)。そして、その後、さらに資金調達に成功していますね。

三橋:そうですね。シリーズAのファイナンスができて、資金的に大分楽になりました。

株式会社アマテラス:素直にすごいと思いますね。三橋さんのような人が増えてくると、日本は面白くなりますね。優秀な人がリスクを取る世界。これからのマナボの成長、そして三橋さんの今後、楽しみにしています!

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edited by 藤岡清高

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