農業が儲からないというのは、資本主義の世の中で「ありがとう」と言われていない産業なのではないか。
「ありがとう」が言われていなければ、私は無くなるべきだと思います。
未来永劫日本から、世界から農業が無くならない仕組みを作る。
これが我々のビジョンであり、私の人生のビジョンです。

株式会社農業総合研究所代表取締役社長 及川智正氏

”農業は儲からないということは『ありがとう』と言われていない産業なのではないか。
資本主義において『ありがとう』と言われない産業であれば無くなるべき。”
農業総合研究所の及川社長はこう言い切ります。

及川社長はサラリーマンを経験した後に農家に転じ、一時は家族がいながら月収数万円という状況を味わい、プライドをズタズタにされたと言います。
しかし、農産物の作り手、売り手、消費者のそれぞれを経験したことで、農産業の非効率さや問題を身をもって知り、農家が直接都心のスーパーに農産物を届ける『農家の直売所』モデルを生み出します。

20名・2店舗から始まった『農家の直売所』は4,500人・450店舗(2015年春)にまで成長した。
これは農産業において『ありがとう』を生み出した結果だと言います。

”ビジネスとして魅力ある農産業を確立する”という日本の社会的難題に取り組む、農業総合研究所 及川社長の生い立ちや思いに迫りました。

及川智正氏

代表取締役社長
及川智正氏

1975年 1月2日生まれ
1997年 東京農業大学農学部農業経済学科卒業
1997年 株式会社巴商会入社 宇都宮営業所転属
2003年 和歌山県にて新規就農ハウス施設にてきゅうり、トマト、青ネギ、米を栽培
2006年 エフ・アグリシステムズ株式会社(現フードディスカバリー㈱野菜のソムリエ協会) 関西支社長に就任
野菜ソムリエの店エフ千里中央店開設 スタッフへ譲渡
2007年 株式会社農業総合研究所設立 代表取締役CEOに就任、現在に至る

株式会社農業総合研究所

株式会社農業総合研究所
https://www.nousouken.co.jp/

設立
2007年10月
社員数
166名(2018年4月時点)

《 事業分野 》
サスティナビリティ
《 事業内容 》
農産物委託販売システム事業「農家の直売所」 農産物流通販売事業 農業コンサルティング事業

父の話から農業のつらさを知った幼い頃の体験

アマテラス:

及川さんは幼少期から農業関係の仕事をしたいと考えていましたか?

株式会社農業総合研究所 代表取締役社長 及川智正氏(以下敬称略):

農業をしたいというよりも、農業を何とかしたいという思いは幼い時からなんとなくありました。その根本にあるのは子どもの頃父から聞いた話にあると思います。父は無口であまり弱音を吐かない人物ですが、農業については「いやあ、しんどかったよ」とよく話していました。父は岩手県の農家の次男として生まれた、いわば「金の卵世代」にあたります。中学卒業後、すぐ会社に入社し、プラント建設関係の仕事に携わっていました。私が幼少の頃はアルジェリアで工場を建てる仕事にもかかわっていたこともありました。私も一緒にアルジェリアで過ごしたので一応帰国子女になりますね。

そんな父は幼少の頃から相当に働いていたそうです。朝は誰よりも早く起きてゴルフ場に行き、キャディーのアルバイトをし、その後川に行って朝食の食材を捕まえ、農作業を手伝い、そのあとようやく学校に行っていたようです。また、午後からも農作業を手伝うという生活を送っていました。父は高校にも大学にも行きたかったようですが、そういう状況ではなく、農家は非常に厳しかったと幼少期を振り返っていました。同様に、祖父と話をしていても辛い生活が続いているように見えました。その様子を見て、食べ物を作っている人たちがなんでこんなに苦労しないといけないのかと考えていました。

目立たなかった高校時代。東京農業大学への進学。

アマテラス:

どのような学生生活を送ってきましたか?

及川智正:

高校時代は暗い性格だったと思います。今から思うと斜に構えていましたね。自分で何かができない煩わしさ、自分だけで生きていけない煩わしさ、親と意見が違っても養ってもらっている以上は最後は折れないといけない口惜しさというのがあり、社会やその中にいる自分が嫌でした。授業中はちゃんと聞いているけれども小説ばかり読んで授業はあまり受けていませんでした。

大学は東京農業大学に進学しました。先ほど語ったように食べ物を作っている人たちが何でこんなに苦労しないといけないのか、というもやもや感が、農大に進学する一つのきっかけだったと思います。

部活動と酒に明け暮れつつも、農業をなんとかしたいと思い始めた大学時代

及川智正:

大学ではローバークルー部という部活に所属していました。ローバークルーはボーイスカウトの最上級にあたり、普段はスポーツや山登りなどで精神力と体力を鍛え、何か有事が起こったらボランティア活動を行うというのが主要な活動でした。私が幹事を務めた時期にに阪神淡路大震災が起きたため、発生後すぐに募金活動をはじめ、1週間後には現地に入ってお手伝いさせていただきました。

ただ大学で学んだのは農業に関する知識と思われるでしょうが、実際はお酒の飲み方と、笑いの取り方だけだったと思います(笑)。驚いたことに、大学内で一番偉い人は勉強ができる人やスポーツができる人ではなく、お酒が飲める人でした。幸いなことに私はたまたまお酒が飲めましたので先輩にとてもかわいがられました。濃密な部の上下関係や人間関係に触れ、とても楽しく過ごしました。ついには帰るのが面倒になりキャンパス内の部室にこっそり住んでいました。シャワーや光熱費はタダなので、ゴキブリさえ我慢すればとても快適でした(笑)。

お酒とともにあった濃密な大学生活で、私は高校時代から比べると、一気に明るくなりましたね。ただ部活は横の連携や内部の人間関係、計画書作成など結構厳しい側面もありました。この厳しさと先輩後輩との人間関係の楽しさに触れたローバークルー部の活動こそが、今の私のベースになっていると思います。

一方、明確に農業をなんとかしたいと思うようになったのも大学時代です。私は比較農業を専門とするゼミで、卒業論文を書くことになりました。5年後・10年後・100年後日本の農業がどうなるかという予測を、当時の数字データから調べてはじき出しました。すると農業をやる人がどんどん減っていき、高齢化率が年々増加し、耕作放棄地が増加し、そして食糧自給率が下がって行くというデータになりました。今まさに農業について言われているのと同じ結果がでていました。大学生の自分がやってもこのような悪い結果しかでないのに、もっと頭のいい人がやればさらにまずい結果が出てくる。このままいったら本当に農業は良くない方向に進むと思いました。そして何とかするためには、ただ農家の数を増やすとか、作るのを増やすということではなく、農業を構造的に変える必要があると思うようになりました。

就職氷河期の中で出会った巴商会に新卒入社。しかし農業を諦めきれず寿退社。

アマテラス:

及川さんの頃は就職氷河期まっただ中ですね。どのような就職活動でしたか?

及川智正:

氷河期でしたね。農業や食品関係の企業に関心を持っていましが、学業の成績も悪く、酒しか飲んでいなかった私には、農業、食品関連企業からは、まったく声がかかりませんでした。結局、当時流行の合同会社説明会の中から会社を選ぶことになりました。しかし、面倒くさがり屋の自分にとって、100社の中から自分の行きたい会社を探すのは難しい作業でした。そこで全部回るのは無理だと考え、合同説明会を運営している会社のスタッフ数名に声をかけて、「もし会社を辞めたとしたら、ここの中で入りたい企業はどこか」という内容のアンケートを取り、その中で最も得票数が多かったのがガス専門商社の巴商会でした。全国各地に営業所がありましたが、働くならば一番厳しいところに行きたいと言ったところ、宇都宮行きを命じられました。

宇都宮時代では、ニコン・キヤノン・コマツといった大企業ユーザーを中心にガスの販売をしていました。仕事は楽しく、自分は本当に営業マン向きだなと思いました。お客様からもかわいがっていただき、食事やゴルフに連れて行っていただきました。今でも当時のお客様とは年賀状でのやり取りや困った時の相談などの交流機会があります。

小さい会社でしたが、人材教育がしっかりしていて研修制度が充実していたことにはとても満足しています。社員研修は2ヶ月に1回全国から同期を呼び、同期何名かと1日ディスカッションする機会が設けられていました。特に最初の研修はよく覚えています。「なぜ働かないといけないかを考えてください」と言われ、その回答が終わったら「では、なぜ巴商会じゃないといけないのかを考えてください」と言われ、みんなでああでもない、こうでもないと考え、議論し続けました。かなり本質的なテーマについて考えて得られた経験は貴重なものだったと今でも思います。

最初の会社の影響力は大きいと言われますが、巴商会で人材教育をしっかりやってくれたことは大学のローバークルー部と同様、今の自分のベースになっている部分だと思います。またガス販売という薄利多売の商売は農業とも通ずる部分があり、営業の方法などのノウハウ、考え方、ロジックなどは今でも活きていると思います。

巴商会では6年楽しく勤めていましたが、いつかは農業の仕事をやりたいという思いが残っていました。そのきっかけが結婚でした。自分のやりたいことができるチャンスだと思い、結婚を機に農業をしようと考え、男には珍しく寿退社しました(笑)。農業の仕組みを変えられるような仕事をやりたいと思っていましたが、まずは現場で農業を実践することが重要だと思い、義父の元で研修という形から入りました。

アマテラス:

サラリーマンから農家への転身はどうでしたか?

及川智正:

農業の生産現場で3年間働きました。1年目に感じたことは、農業は「つまらない仕事」だと思いましたね。やはり仕事のやり甲斐は、相手からの「ありがとう」の多さと深さだと思います。感謝されモチベーションが上がり、また仕事を頑張る、このサイクルが、仕事の楽しさだと思っておりました。しかし私の農業にはそのようなことがまるでありませんでした。作ったものを農協へ持っていき伝票をもらうという日々の連続でした。一生懸命きゅうりを作ったのに、「ありがとう」という感謝も言われずに、ただきゅうりとその品質のみを書いた伝票を渡され、事務的な手続きで終わる。この仕事が続くことで、農業のどこに面白味を見出していいのか、わからなくなってしまいました。そこで私は2年目から独立すること考え、ハウスを借りて自分で農業をすることにしました。

月数万円しか稼げない生活。ズタズタになったプライド。

及川智正:

独立してうまくいくかというと、やはり甘いものではありませんでした。作るのも売るのも半人前の状況では、良い品質の作物ができず、農産物の販売先をどこに持っていいかもわからない状況でした。結果、月収は数万円になってしまいました。しかもこの時期に子どもができてしまい、共働きしていたとはいえ生活は苦しい状況でしたね。

数万円の所得ということは、食べることが苦しい、生活が苦しいというよりも心のプライドの方が辛かったですね。会社の中では絶対一番だと思っていたのに、農業の世界に入り1人で働くと月数万円しか稼げない。他で働いている同期に負けているのではなかろうか。そう考えてしまうとプライドがズタズタになりました。ここから立ち上がるのは大変でした。とても悔しかったです。どうにかしたい、同年代には負けたくないという気持ちもあり、今があるのだと思っております。
3年目に入り食べ行くことが難しそうなので、東京に戻りまたサラリーマンをやろうかと思っていました。しかしその年には、去年注文してくれた人がリピーターになり、自動的に注文が入るようになりました。そして、他の野菜や、漬物、サラダなどの加工品の需要も増え、様々な販売手段が増加。結果地元の農家さんより.数倍収益が上がりました。相手が欲しているものを出荷する、付加価値をつけるなど、お客様の要望に応えて的確な商品を持っていくことが成果につながったのだと思います。

生産者(農家)から販売者に転身。売る大変さを実感。

及川智正:

私が農業に携わるきっかけは、農家で儲けたいからという理由ではなく農業の仕組みを変えたいと思っていたからでした。その第一歩として、スーパーに自分で営業に行き、要望に応えた商品を持っていくというマーケットインの発想を普及させるなど自分の考えた仕組みを、和歌山から情報発信したいと考えていました。しかし農家という立場では情報発信していくのは難しいものがありました。

試しに地元の農家の方々に自分の試みについて話してみると、「おまえ、えらいね、東京から単身で来て自分たちができない営業もやりながら農業も行っている。」と評価をいただき感動してくれました。しかし最後には「でもね、農家はキュウリを作ることが仕事だ。」と言われてしまいます。農家からすれば、作ることに専念しておけばいい、流通は管轄外という考えです。地方では自分が考えた農業の仕組みを変える工夫を理解してくれるけれども、様々な絡みもあり、なかなか新しいことができる素地がないということを実感しました。これではいくらいい仕組みを考えても、農家という中で仕事をしていたら情報発信はできないと悩むようになりました。

この時知り合うことが出来たのが、、野菜ソムリエ協会でした。協会から農業経験を生かして、自分たちの会社を手伝ってみないかと誘われました。その当時、野菜販売部門が東京から大阪に進出し、野菜の流通部隊を作るという話になりその責任者として任命されました。

この仕事は大阪の千里中央に八百屋を立ち上げ、生産者から野菜を仕入れて生活者に売るというものでした。こうして私は生産者側から販売者側に立場が変わりました。そこで驚いたのは生産者側と販売側ではまったく考えが異なることを知ったことです。生産者側は1円でも高く売ろうとしていたのに、逆に販売者側では利益率を考えて農家から安く買い叩いているということでした。その状況を見て、やはり生産者と販売者を両方関わった人でないと、この水と油の関係を調和させることはできないということ感じました。また、生産するのも販売するのも大変ということを実感しました。これ以降、生産と販売をつなげることが大事だと考えるようになり、農業流通の仕事をしようと考え、再び和歌山へ戻りました。

「生産と販売をつなげる職がないならつくるしかない。」お金も仕事もなしに起業。

及川智正:

和歌山に戻って最初にしたことは生産と販売をつなぐ仕事を探すことでした。そこでハローワークに行ったところ、紹介された仕事が2つありました。1つは農協(笑)、もう一つが市場。これは自分のやりたいことではないとハローワーク側に伝えるとそのような仕事とはないと言われたため、自分でやるしかないと思い会社を立ち上げました。そして自己資金をかき集めてつくった現金50万円をもって、2007年、株式会社農業総合研究所を立ち上げました。

最初のうちは専門家に頼むお金もないため、3万円という一番安い手数料で登録できる電子認証を行いました。このとき周りからは「司法書士でも行政書士でもない人間が、電子認証できたのは初めてだ」、「というより、和歌山県で電子認証初めてです」、「よくやるなおまえ」などと言われました(笑)。

こうして会社はできたものの、具体的にどんなビジネスをやるのか全く決めていなかったため、仕事は全くありませんでした。そして仕事がないとまた例のごとく子どもができてしまう(笑)。そこで家族会議を開き、1年間やって会社から給料が払えるようにならなければ会社はたたむという約束と、アルバイトをしてでも月10万円だけは家に入れるという約束をしました。これを妻に話したところ、あっさり承諾を得ることができたので、今この会社があるのは妻のお陰ですね(笑)。

起業当初、お金は稼げなかったが、現物(みかんなど)をもらい食いつなぐ。

アマテラス:

起業当初はどのような事業で稼いだのですか?

及川智正:

生産者に代わって高級スーパーや百貨店などに生産物を売り込む農業の営業代行コンサルティングのような事業を行いました。具体的には私が農家の方々を訪問して、より買付価格の高い売り先を紹介して関係を構築し、商流ができたらコンサル料を農家の方々から頂くというものでした。しかしこのビジネスは大失敗に終わりました。農家の方にとってコンサルティングという目に見えないサービスにお金を支払うという概念がなかったのです。農家とスーパーをつなげるために、農家から集めたみかんを持ってスーパーに売るとスムーズにスーパーとの契約は取れるのですが、スーパーとの契約がとれたので今月はコンサルティング料をいただけますか、と言うと農家の方々から「え!? スーパーを繋げてきただけなのにお金をもらっちゃうわけ?」と言われてしまいました。農家の方々とは事前に契約を締結していたものの、結局農家の方々はコンサルティング契約という目に見えないものにはお金を支払う気がなく、私は稼ぐことができなくなりました。そしてお金を稼げずに家に帰ると、お腹をすかせた2人の娘が泣いているという惨状です。これは辛かったです。

困った末に考えたのが、お金の代わりに野菜・果物(現物)を頂くという方法でした。農家の方に、「お金はいらないからそこに置いてあるみかんを50箱ください」という話をすると「みかんだったら100箱ぐらい持ってけ。」と言われます。現物はくれるのか!と思いましたね(笑)。しかも50と言ったら100くれます。お金を下さいというと「ふざけんじゃねえ!」と言われますが、現物になると「及川さんお世話になったからたくさん持っていきなさい」となる。そしてそのもらったみかんを大阪や和歌山の駅前でゴザを広げてみかんを売ることで、お金を稼ぐことができるようになりました。

作物をもらい駅前でゴザを敷いて売って現金化するという作業を繰り返すうちに、農家の間で「東京から来たお兄ちゃんに野菜や果物を与えると高く売ってきてくれるらしいよ」と噂になり、多くの農家から作物が届くようになりました。僕は作物ではなく、お金が欲しかったのですが・・・。(笑)

都会に道の駅を作る発想で生まれたスーパーの中の直売所「農家の直売所」

アマテラス:

現在の主力ビジネス「農家の直売所」はどのように生まれたのですか?

及川智正:

農家からお金ではなく作物を引き取っていくうちに農家の方から直売について相談を受けるようになったのがきっかけです。「ファーマーズマーケットや道の駅、農産物直売所はいっぱいある。確かにたくさん売れるし儲かるけど土日じゃないと売れないし、車がないとお客さんも来れない。これを何とかコーディネートできないのか。」という意見が数多くの農家から言われるようになりました。それを聞いて私は都会にファーマーズマーケットを出すことを考えたのですが、そのコストを算出したら1億円弱になりました。

しかし資本金は50万円しかないので、このビジネスを始めるには資金調達が必要でした。しかも当時はVC(Venture Capital)のことをビタミンCだと思っていた(笑)くらい資金調達の知識に疎い状況でした。そのため銀行から借りる手段しかわからないのですが担保がないため1億円借りるのは絶対無理です。都会のファーマーズマーケットのビジネスモデルは諦めざるを得ませんでしたが、ここでいろいろと考えました。

八百屋をやっていた経験からお魚とお肉がないところでは野菜は売れない。そうなるとお肉とお魚を売ることが大事になる。それでは都会でお肉とお魚を売っているところはどこかと考えたらスーパーマーケットです。 スーパーの中に直売所を作って、農家の方が作った野菜、果物、花、お米を、農家が値段を決めて自由に販売し、売上を農家とスーパーと農業総合研究所で分け合うというビジネスモデルを構築しました。この形であれば農業総合研究所は在庫リスクを負うことなく、場所もスーパーを活用するので資金がなく始められます。直売所の数は全国に約16,000とセブンイレブンよりも多いと言われております。しかし、どちらかと言うと立地的には地方側にあります。これを自分たちが逆転させて都会でやろうというイメージです。

スーパーマーケットの野菜コーナーを直売所にするという「農家の直売所」の試みは、最初20名の生産者と2店舗で実施していたものが現在(2015年春)は約4500名の生産者と450店舗で実施するまでに拡大しました。このビジネスモデルは我ながら本当によく思いついたなと思います。

目指すのは農産物流通のプラットフォーム

アマテラス:

「農家の直売所」のビジネスモデルを教えてください。

及川智正:

我々は生産者が出荷したものを集める集荷と都心部へのスーパーへと農産物を運ぶ流通を担っています。特徴としては、生産者が「売りたいもの、売りたい店、売りたい値段」を決めるということです。

5,000人くらいいる生産者が毎日われわれの集荷拠点に野菜や果物を運んできてくれます。集荷拠点は我々の直営もしくは業務提携先の運営になります。集荷拠点では生産者が持ってきた野菜や果物の値段を決めて、われわれが開発したバーコード発券機からバーコードを発券し、野菜や果物にバーコードを貼るという作業を生産者が行っています。そして生産者は自分たちが出荷したい店を選び、サミット●●店行き、ライフ●●店行きなどと書かれた看板のところに農産物を置きます。そしてトラックで該当する店舗まで持っていき販売します。農産物が売れると、生産者は売上の約65%を受け取ります。残約35%を我々とスーパーで折半するという形で利益を分け合います。

野菜・果物は鮮度が命です。翌日の午前中までに売り場に届けることを約束しています。我々はそれを支えるシステムを作っています。例えば、先ほどお話ししたバーコード発券業務に関するシステムを作りました。バーコードはスーパーによって異なります。イトーヨーカドーのものはイオンでは使えませんし、イオンのものはダイエーでは使えない。そのため以前は取引するスーパーが増えるたびに、バーコード発券機を買っていましたが、取引先が増えると「どの発券機からどのバーコードが出るのかわからないんだけど、、」というクレームが来ました。そこで一つのシールの発券機から世界中のスーパーマーケットのバーコードが簡単に発券できる仕組みを作りました。これを作ったおかげで生産者が使いやすくなり、様々なスーパーと直取引ができるようになりました。我々の会社が伸びている要因は、入口でバーコード発券システムを作ったことにあるのではないかと思います。

他にも生産者が自分たちの作物が売れているかを確認できる仕組みも作っています。委託販売なので農家の方々は自分たちの農産物が売れているかどうか不安になっています。しかも集荷拠点と販売拠点は車で2、3時間は離れているので、農家の方々が自分の商品が売れているかどうか見に行けない距離です。そこで我々はスーパーから毎日レジ情報を頂き、生産者向けのポータルサイトで売上情報が見れるようにしました。そこでは何がどれだけ売れ、どのスーパーで売れ、何が売れ残っているのかという売れ筋情報や、大根を一番高い人は150円、安い人は50円、平均このくらいで売っているという価格情報、集荷場のライブ映像、などを提供しています。つまり、ポータルサイトによって我々はいろんな情報をリアルタイムで反映する仕組みを提供し、生産者が出荷先を決定したり、価格帯を決めたりするのに役立てていただいております。

我々は単に流通会社ではなく、最終的に目指すのは新しい農産物流通のプラットフォームを構築することを目指しています。やること・やらないことをしっかり決めてシステムをブラッシュアップし、最終的には農業をやるには当社のシステムを使わないと農業はできないくらいのスタンダードとなるシステム作りを目指しています。

大規模流通(市場)と小規模流通(道の駅)の中間に位置する第三の選択肢を提供する

アマテラス:

既存の農協や道の駅のシステムとの違いを説明いただけますか?

及川智正:

我々のシステムは農家側から見た場合、自分で値段を決め、出荷先を決め、好きなものを作ることが出来る。この点が最大のメリットです。市場への出荷だと、自分で値段が決められませんし、出荷先も決められません。また自分で好きなものも作れません。産地を形成しなければならないため、農協が生産作物を指定し、それ以外のものは流通出来ません。また、形の悪いものB級品・C級品も出荷できません。我々の流通は全く逆です。売れ残りのリスクはありますが、今まで捨てられていたかたちの悪いものやB級品・C級品も美味しいものであれば、お金になるというところが我々の仕組みです。

一方、生活者側のメリットとしては、わざわざ土日に車を使って買い物に行かなくても近くのスーパーマーケットで同じような商品を毎日買えるというところです。生活者の方に野菜や果物をどこで買っているかというアンケートを取ると、約20%は農産物直売所と答えているそうです。おそらく土日を使って地方に行き野菜や果物を買っていると思います。そう考えると、車を使わなくても毎日使う近くのスーパーで買えるというのは大きなメリットになります。他には鮮度の良いものや完熟している商品を手に入れることができる点にあります。市場流通はどうしても3、4日かかってしまうので、トマトは緑のトマト、桃は固い桃をとりますが、我々は翌日に届けるので完熟の商品を届けることができます。またすべてのものに対して生産者の名前がわかり、規格も定まっていないため、選ぶ楽しさもあると思います。

また、市場流通は、100円で農産物が売れるとしたら生産者が受け取れるのは25円から35円、流通日数は3~4日となります。凄く悪い流通に見えますが、大量流通・大量販売・安定供給ができ、生産者出荷の手間が少ないという面ではよい流通です。作りさえすればどうにかなるという流通です。

この市場流通に代わってでてきたのが、道の駅の流通です。末端売価も都会で販売するよりちょっと安くなり、生活者にとっては非常にいいものになります。出荷当日にものが並ぶので非常に鮮度がいい。一見するとかなりいい流通ですが、問題点もあります。例えば、地元に5ヶ所直売所があったら出荷者は5ヶ所回らないとなりません。直売所に出荷した場合、自分で売った農産物が余ったら自分で引き取りに行かなければなりません。5ヶ所行って5ヶ所引き取ってしまえば1日が終わってしまう。生産者にとっては非常に手間がかかる流通です。また郊外で販売しているので、売れる量が少ないのも問題点です。つまり道の駅は、手取りはいいものの、少ししか売れず手間がかかるという小規模流通だと思っています。

我々の流通はその中間です。市場流通より多くは売れませんが、市場流通よりは手取りがよい。道の駅よりは手取りは悪いけれども、道の駅より多く売れる。これが我々の流通です。よく「市場流通は悪いか良いか」と聞かれますが、私は「市場流通しかない」というのが悪だと思います。そこに新しい流通を作って、農家の方の選択肢を増やすことが重要と思っています。

もう一つ、生活者も選べる仕組みも作りたいと考えています。今スーパーに行ってリンゴを買おうと思ったら赤いリンゴか緑のリンゴ、ふじか王林、というように種類に応じてリンゴを選ぶと思います。私たちがやりたいのは、同じ赤いリンゴ、ふじという種類であっても市場直送か生産者直送かというように、流れてくる流通の違いによる選択肢を与える仕組みです。この選択肢をスーパーと生活者に提供していきたいと思います。

またスーパーがいろいろな産地を選べる仕組みを作っています。産地ミックスをすることによって商品の偏りをなくして1年間を通じて売り場を保つことができるというのは我々の強みの一つです。始めは和歌山で農産物を集め大阪で売っていましたが、和歌山県は夏が暑くその時期に商品がなくなるため、産地直送コーナーを作っても1年を通じて売り場を保てないという問題が発生しました。そこで長野に産地を作ることで、この問題を解決しました。またいろいろな会社と業務提携をし、現在は集荷場を拡大しています。初めは集荷場を自社でやっていこうと考えましたが、様々な問題が発生したため提携を結ぶ戦略に変更しました。例えば神姫バスというバス会社と業務提携し、バス会社で野菜と果物を集めてもらい、我々がシステムと販路を提供するという仕組みを行っています。また、淡路島ではパソナ、奈良県では近鉄の関連会社と提携するなど、地元に根付いた会社に集荷業務をお願いして我々はシステムと販路を提供するという、役割を決めた業務提携を行っています。

あとは農園のプロデュースなどのコンサルティング業務をやっています。自前で農地を持った経営をしていないので、我々でやっていることは全てコンサルティングだと考えています。

「農家を助ける」のではなく、「農業がなくならない仕組みをつくる」

アマテラス:

御社の経営理念について教えてください。

及川智正:

「持続可能な農産業を実現し生活者を豊かにする」というものです。私は自分で農業をやり、農協にも行き、市場にも行き、自分で八百屋もやって、スーパーにも営業に行きました。するとみんな同じことを言います。それは「野菜や果物は儲からない」「農業はもうからない」ということです。儲からないというのは、多分資本主義の世の中で「ありがとう」と言われていない産業なのではないかと思います。「ありがとう」が言われていないのでなければ、私は無くなるべきだと思います。しかし私は、農業は日本国民の胃袋と心を満たす産業だと思っています。そのため、未来永劫日本から、世界から農業が無くならない仕組みを作る。これが我々のビジョンであり、私の人生のビジョンです。

農業が無くならない仕組みを作る。これは農家を守るための何かではなくて、日本に食べる人がいて、世界に食べる人がいて、彼らの心と胃袋を満たすために農業が衰退しない仕組みを作っていく。無くならない仕組みを作っていく。ここに注力したいと考えています。

「及川さんの会社は農家を助けていますよね。」と言われることがありますが、単に農家を助けようとは思っていません。農家を助けるのではなく、農業が無くならない仕組みを農家と一緒に作ろうと思っています。「及川さんの会社いいですね。地方活性化につながっていますよね。」とも言われますが、地方活性化や環境問題のために活動しているのではなく、我々は農業が無くならない仕組みを作り、そこに特化する会社になりたいと考えています。
そのためには、我々のビジョンである「ビジネスとして魅力ある農産業」を確立して行くことが不可欠と考えております。
その中でたまたまうまくいったのが「農家の直売所」という事業でした。20名・2店舗から始まって、今では4,500人・450店舗になったので、多分みなさんから「ありがとう」と言われているんだと思います。

まずはこの事業をメインで拡大して行き、5年後にスーパー2,000店舗、生産者20,000人まで広げたいと考えています。それができたら最終的には作ることから食べることまで、農業に関すること全てコーディネートできる会社になりたいと考えています。自分たちで生産をしたり、種屋さん、苗屋さん、肥料屋さんをしたり、もしかしたら販売をしたり。農業に関わるビジネス全てをやるつもりです。それができたら海外にも広げるつもりです。このモデルだけではなく、他のことも海外でやりたいと考えています。

「ありがとう」とちゃんと言える人が欲しい。

アマテラス:

最後に、及川社長が農業総合研究所に求めている人物像を教えて下さい。

及川智正:

一つは元気があり、自分の目標と会社の目標を重ねることが出来る人間だと思います。もう一つは「ありがとう」をちゃんと言える人間です。「ありがとう」の反対語は「当たり前」です。何でも「当たり前」と思ってしまうと、おそらく「ありがとう」という言葉が出てこないと思います。いろいろなことに対して当たり前じゃないという気持ちを持って、「ありがとう」が言える人間が欲しいと思います。そういう感覚を持った人間と働きたいと思います。私は別に社員が欲しいわけではなく、仲間が欲しいと考えています。私が一生懸命農業をどうにか変えたいと思っていても24時間しか働けないので、やはり同じ気持を持った仲間と一緒に働き、彼らの時間とともに、大きな波を作って農業を変えていきたいなと思います。

農業ビジネスは体力的にも精神的にも結構大変で、苦しいビジネスのではないかと思います。また、簡単に儲かるビジネスではありません。しかし農業は絶対に必要ですし、農業が衰退すると世界の人々が困窮します。故に我々がやらなければならないこの農業ビジネスは意義のあるものと考えています。このような考えに共感してくれる方の応募をお待ちしています。

アマテラス:

及川さん、素敵なお話ありがとうございました。

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アマテラス編集部

「次の100年を照らす、100社を創出する」アマテラスの編集部です。スタートアップにまつわる情報をお届けします。

株式会社農業総合研究所

株式会社農業総合研究所
https://www.nousouken.co.jp/

設立
2007年10月
社員数
166名(2018年4月時点)

《 事業分野 》
サスティナビリティ
《 事業内容 》
農産物委託販売システム事業「農家の直売所」 農産物流通販売事業 農業コンサルティング事業