スピード・スケール・再現性をもったまちづくりを通じて、持続可能な地域モデルの構築に挑む

株式会社NEWLOCAL代表取締役 石田 遼氏

NEWLOCAL_eye

人口減少社会において、地域社会を持続させていくためのまちづくりの重要性が高まっています。しかし、まちづくりを成功させるには、膨大な時間や資金が必要なケースが多く、再現性のあるノウハウを確立することが極めて困難でした。

しかしそんな困難にあえて挑み、地域の想いに寄り添いながら人・アイディア・資金を集めることで、スピード・スケール・再現性をもったまちづくりに取り組むスタートアップがあります。それが、株式会社NEWLOCALです。

NEWLOCALは2024年8月現在、長野県野沢温泉・御代田町、秋田県男鹿市、京都府丹後の4つの地域でビジネスを創出・展開しており、今後5年間で10地域への拡大を目指して活動しています。

同社の代表取締役である石田遼氏は、東京大学で建築学を学んだ後、建築設計、経営コンサルタント、不動産IoTスタートアップと様々な立場からまちづくりに関わってきた経歴があります。なぜ石田氏は、まちづくりにそこまでの熱量を持つようになったのか。その生い立ちから創業までの経緯、そして経営者として今後目指す未来について、詳しくお話を伺いました。

石田 遼氏

代表取締役
石田 遼氏

1986年生まれ。建築設計、経営コンサルタント、不動産IoTスタートアップと様々な立場からまちづくりに関わる。2022年 株式会社NEWLOCAL創業。「地域からハッピーシナリオを共に」をミッションに日本各地で不動産開発を中心としたまちづくりを行い、人口減少社会における持続可能な地域モデルの実現を目指す。半分は東京、半分は各地を飛び回る生活。

株式会社NEWLOCAL

株式会社NEWLOCAL
https://www.newlocal.co.jp/

設立
2022年07月
社員数
11名

《 Mission》
地域からハッピーシナリオを共に
《 事業分野 》
Other
《 事業内容 》
NEWLOCALは、“地域からハッピーシナリオを共に”をミッションに、不動産開発を中心としたまちづくりを行い、人口減少社会における持続可能な地域モデルの実現を目指しています。独自の魅力を持ち、意思と行動力がある人々が住む地域において、地域の想いに寄り添い、人・アイディア・資金を集めることで、スピード・スケール・再現性をもったまちづくりを行います。現在は、長野県野沢温泉・御代田町、秋田県男鹿市、京都府丹後の4つの地域でビジネスを創出・展開しており、今後5年間で10地域への拡大を目指して活動しています。

アメリカでの幼少期と日本でのカルチャーショック

アマテラス:

まず、石田さんの生い立ちからお伺いします。現在に繋がる原体験のようなものがあれば教えてください。

株式会社NEWLOCAL 代表取締役 石田遼氏(以下敬称略):

私は、神奈川県にある母の実家で生まれました。父がMBA取得のためにサンフランシスコに留学していたので、生後すぐに移り住むことになり、幼少期をアメリカで過ごすことになりました。

物心ついてから幼稚園を卒業するまでの約6年間、前半はサンフランシスコ、後半はニューヨークで過ごしました。特に多種多様な人たちが住むサンフランシスコでは、グローバルな環境に強く影響を受けました。

私が6歳になる頃、家族で日本に戻り、東京の小学校に入ることになりました。アメリカのカルチャーの中で育った私にとって、日本の公立小学校での日々はカルチャーショックの連続でした。日本の学校は窮屈だと感じていましたし、はじめは周囲からも浮いていたと思います。

中学校は、私立の武蔵中学校という男子校に進学し、そのまま武蔵高校に進みました。当時はサッカーに打ち込みつつ、勉強にも励みました。病床の祖父が成績表を見て喜んでくれたこともあり、学年首席をほぼ毎回キープしていたと思います。

交換留学での成功体験と建築の卒業設計で味わった挫折

石田 遼:

成績優秀者ということで、高校2年生のときに、イギリスの名門校であるイートン校への交換留学の機会が訪れました。3ヶ月間の留学期間中は特待生寮で過ごしたのですが、そこにはイギリスのトップエリートたちが集まっており、非常に濃い時間を過ごしました。

初めは言語や文化の違いにも苦労しましたが、3ヶ月後には授業の内容を理解できるようになり、提出したレポートもきちんと評価され、友達もできました。世界のトップクラスと肩を並べて学ぶ中で、「自分も彼らと十分戦える」と思えたことは、後の自信につながったように思います。

もともと旅行が好きだったので、イギリス滞在中は、時間があればヨーロッパ各地を見て回っていました。旅先で教会や美術館を見る中で建築に対して興味を持ち始めたのも、この頃です。建築家の本などを読み自分なりに建築への学びを深めていきました。

90歳を過ぎても現役で働いているような建築家になりたい。そんな思いから、東京大学の建築学専攻に進みました。専攻が本格化する3年次からは、仲間たちと学校に泊まり込んで、寝ても覚めても課題に打ち込む日々が続きました。

そしていよいよ卒業設計というところで、私は自分のコンプレックスと向き合うことになりました。与えられた課題をこなすことはできても、やりたいことや課題そのものをうまく見つけられない自分に愕然としました。

旅で育まれたまちづくりへの関心、そして建築以外の道へ

石田 遼:

「自分がやりたいことは何なのか」自問自答を重ねても答えは出ないまま、東京大学の大学院にそのまま進み、隈研吾研究室に入りました。途中、パリに1年間交換留学をしていたので、大学院には計3年在籍したことになります。

自分には建築家として生きていくだけの才能はない。留学から戻ってきて、あらためてそう自覚しました。その上で、建物自体よりも、建物によって起きる地域や人の変化の方に自分はより関心を持っているということにも気づかされました。

旅をする度に、いくつも素敵な街と出会い、まちづくりに関わりたいという思いは強くありました。ただ考えてみれば、行政側であったり、デベロッパーであったり、広告代理店であったり、建築家ではなくても、建築という職能を活かせる選択肢は沢山あることも分かったのです。

色々と検討した結果、大学院を卒業した後の進路にはコンサルティング業界のマッキンゼー・アンド・カンパニーを選びました。サマーインターンの経験が非常に面白く、業界としても自分には合っているのだろうと思えたからです。インターン期間中に出会った先輩方もかっこいい方々が多く、彼らのように仕事してみたいと思えました。

経験値を積み上げ、世界中のプロジェクトに挑んだ3年間

石田 遼:

マッキンゼーに入ってからは、とにかく経験値を増やそうと、業界とトピックをかけ合わせたビンゴ表のようなシートを作り、それを埋めていくような形で、短めのプロジェクトに志願し続けました。

1年半ほどがむしゃらに働き、アナリストとしてある程度のことができるようになった段階で、次に目を向けたのは海外です。もともと建築やまちづくり関係のプロジェクトをやりたいという思いはあったのですが、国内にはほとんどありませんでした。

ならば海外のプロジェクトに応募しよう。そう考えたのは自然な流れではあったのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。交通費や宿泊費といった経費を余分にかけてまで現地の人間ではない私をプロジェクトに参画させる理由はどこにもないわけです。

何度も応募しては断られ、それでも諦めることなくエントリーを続けていった結果、運良く1つの海外プロジェクトに入り込むことができました。そこからは連続して海外のプロジェクトに関わるようになり、フィリピン、UAE、ロシアなど20カ国ほど、様々な地域で働くことができました。

平日は仕事に打ち込み、週末には世界各地で旅行を楽しむという充実した生活を3年ほど送っていた頃、転機が訪れました。マッキンゼーが世界中で行っているまちづくり関連のプロジェクトを取りまとめて資料化する仕事が回ってきたのです。

不動産IoTベンチャーの創業、そしてコロナ禍へ

石田 遼:

ケーススタディをまとめていくうちに、自分の中で浮かんでくる思いがありました。「人がやった事例をいつまで集めているんだろう。そろそろ自分でやるべきなんじゃないか」マッキンゼーという鎧を捨て、リスクを取って前に進むべきタイミングだと思いました。

そうして、2017年に立ち上げたのが不動産IoTベンチャーです。センサーやアプリの活用を通じてオフィスや住宅の利便性を高め、そこから得られるデータをもとに生産性や快適性を向上させるという事業をしていました。

スマートシティ、スマートビルが流行っていた時期だったこともあり、複数の大手デベロッパーとお仕事をご一緒させていただきました。 コロナ禍に入ってからは、働き方改革の文脈で行政のプロジェクトにも携わりました。

コロナで海外への渡航が難しくなった事を機に、日本国内でまちづくりに取り組んでいる面白い地域を巡り始めました。それまでサンフランシスコ、ニューヨーク、東京、パリ、ロンドンと世界の大都市しか住んだことがなかったので、あらためて日本をもっと見てみたくなったのです。

NEWLOCAL社で行われたインタビューの様子。石田氏(右側)とインタビュアーの弊社藤岡(左側)

NEWLOCAL社で行われたインタビューの様子。石田氏(右側)とインタビュアーの弊社藤岡(左側)

スマートシティの行き詰まりと地方に見出した希望

石田 遼:

地方でまちづくりをしている方々にメッセージを送っては、毎週のように会いに行きました。平日は最先端の技術を活用した未来の都市づくりの話をし、週末はローカルで地道にまちづくりに取り組む方々と交流する。

そんな日々を過ごしていくうちに、地方にこそより未来を感じるという不思議な感覚がありました。前橋の田中仁さん、三豊の古田秘馬さん、庄内の山中大介さん、西粟倉村の牧大介さんなど、地方でまちづくりに取り組む皆さんが本当にかっこよくて、彼らの仕事に憧れを覚えました。

とはいえ、私は都会育ちで特定の地元に愛着があるわけでもなかったので、動き方を変えるにしてもどうするべきか、だいぶ悩みました。2021年当時、自分の事業は資金調達に難航し、方向性としても伸び悩んでいました。

テクノロジーだけでリアルな場にインパクトを与えることに限界を感じていましたし、都市のビルでの生産性を数%向上させることがどのくらい日本の未来に寄与できるのかという点にも疑問を覚えていたからです。

同じ頃、Googleのカナダ・トロントでのプロジェクトが中止され、トヨタのウーブンシティもトーンダウンの様相でした。世界的な資本と知力を持ってしてもスマートシティは難しいということが見えてきていたのです。

これはもう、方向転換した方が良さそうだということで、2021年末に当時の会社のの代表を辞任し、人に引き継ぐと決めました。自分が始めた会社で、しかも自分が雇用した社員も20人ほどいたので、心苦しい思いはありましたが、それでも前に進みたいと思ったのです。

次の挑戦に向けた方向性を見出すまで1年間の暗中模索

石田 遼:

2021年下旬に辞任を決断してから、翌年3月までは引継ぎ期間でした。当初の予定では、その間に次にどう動くか、自分の今後についても方針を決めて、4月頃から動く予定だったのですが、まさかそこから1年近くも方向が決まらない地獄のような期間が続くとは思いもしませんでした。

まちづくりという領域に漠然とした興味はありつつも、具体的な方向性が決まらないまま、時間はどんどん過ぎていくばかり。当時35歳でそれなりの年齢でしたから、余計に焦りが募っていきました。

自分で立ち上げた1社目を辞めてまで、次に進もうと決めたわけですから、2社目はもっと面白いことをやらないと意味がないと思いました。自分でもよくわからないプレッシャーに苛まれて、押しつぶされそうな心地でした。

しかも当時は、ベンチャーキャピタリストの妻と再婚したばかりだったので、彼女のご両親からすると、結婚相手がベンチャー企業を経営していて、しかもいきなり代表を辞めたというのは、どれだけ不安に映っていただろうかと思います。

幸い妻は仕事柄、理解があり、「起業家ってそんなものだよ」といつも励ましてくれました。彼女の言葉に支えられながら、起業家たちが苦労した話をブログ等で読み漁っては「自分はまだまだだよな」と心を奮い立たせていました。

まちづくりに取り組む経営者の声から生まれた事業構想

アマテラス:

いつ終わるともしれない不安と焦りの中で、NEWLOCAL社の事業アイデアはどのような経緯で生まれたのでしょうか。

石田 遼:

実は当時、ありがたいことに大手VCでお世話になっている方に、隔週で壁打ちの機会を頂いていました。まだ薄っすらとしたビジネスアイデアや今後取りうる選択肢についても、その方に洗いざらい話していました。

その他にも、メンターの方々とお話をする中で、自分なりに仮説が固まっていきました。地方のまちづくりをしている方々の多くが、ファイナンスで悩んでいる。そして、事業を育てていける経営者も不足していることが、話を聞く中で見えてきました。

それなら、複数の地域で、そのエリアに思いを持ってる人たちと一緒に10億くらいの規模の事業を育てていくような関わり方ができれば、お役に立てるのではないか。そう思ったのです。

実際に地方のまちづくりで成果を出しておられる方々のお話を聞くと、一定規模までは事業を成長させられても、そこから先に突き抜けていけないという点が大きな課題になっていました。

起業家個人の時間、もしくはお金を膨大に投資しないと成り立たないモデルではなく、よりスピーディに再現性を持ってまちづくりの成果を出せるビジネスモデルを確立できないか。そんな考えから、NEWLOCALの事業の構想が生まれました。

NEWLOCALのグループ会社が運営する野沢温泉ロッジの風景

NEWLOCALのグループ会社が運営する野沢温泉ロッジの風景

仮説段階の構想からPMFを検証し、NEWLOCAL創業へ

石田 遼:

地元のキーパーソンと共創すること、ファイナンスを活用すること、ひとつの地域でなく多拠点で行うこと。これらの事業の構想ができたところで、本当に地域の起業家が求めているのかどうか、実際に話を聞きながら検証していくことになりました。

そこから野沢温泉の話が立ち上がり、実際にお役に立てそうだということで、会社を改めて立ち上げることにしました。それが、NEWLOCALです。ただ、私自身はホテルや不動産の業界経験がなく、一人では太刀打ちできないということも理解していました。

そこで、株式会社Stapleの代表として広島県尾道市瀬戸田で素晴らしいまちづくりを展開している、長年の友人の岡雄大に相談しました。「日本には瀬戸田のような場所がもっとたくさん必要だと思う。瀬戸田を10個つくらないか」と伝えました。

そこから彼と議論を重ね、最終的に彼が私の会社の取締役になり、私が彼の会社の非常勤取締役として入るという形に落ち着き、共同創業として2023年7月にNELOCALを立ち上げました。

その後、NEWLOCALとStapleの業務領域が当初予定していたよりも似てきたことから、お互いが取締役からは外れることになったのですが、今でもいくつかのプロジェクトで連携していますし、彼がいなければNEWLOCALを立ち上げることはできませんでした。岡には本当に感謝しています。

まちづくりを支える資金調達を再現性ある形で実現

石田 遼:

起業後も様々な壁がありました。銀行融資が思うように進まなかったり、建築の見積もりが予算の3倍に膨れ上がって途方に暮れたり、現地メンバーを採用したら喧嘩が多発したり、色々なことがありました。

しかし、創業前の地獄の1年間に比べれば、よほど心持ちとして楽だったように思います。たとえ困難であったとしても目指したい道が決まっているなら、後は動くなり耐えるなりすればいいからです。

資金調達については、エクイティは非常にうまくいきました。まちづくりの分野でトップクラスの方々を中心に、関わっていただけたら最高と思える方々のリストを作って当たっていったところ、ほぼ全員が快く出資を決めてくださったのです。

逆に苦労したのが銀行からの融資です。野沢温泉で立ち上げたNEWLOCALの子会社は、資本金が100万円。NEWLOCAL本体自体も事業経験もさほどない状態でしたから、なかなか銀行からは理解が得られず、大変なやり取りが続きました。

しかも調達希望額もかなりの規模だったので、長野中の地方銀行を巡ったものの、断られ続ける日々でした。ただ、明確なビジョンがあって、集めた人員の専門性も非常に高く、しかも精度の高い事業計画を出していたので、その点については、いくら断られても絶対の自信を持っていました。

最終的には、助成金も活用しながら融資・助成金合わせて3億円の調達を完了し、不動産を絡めたまちづくりで避けて通れない資金調達のハードルをクリアすることができました。この時に資金調達のノウハウを確立できたからこそ、他の地域でも再現性を持って展開できるようになりました。

NEWLOCALの株主やサポーターたちと、自社オフィスにて撮影

NEWLOCALの株主やサポーターたちと、自社オフィスにて撮影

10億の事業を創り、地域の未来を担うリーダーを求めて

石田 遼:

求人媒体への掲載やリファーラル、採用関係のイベントへの参加など、出来る限りの手は打っているのですが、事業拡大をスピード感を持って進めるには人材が常に不足しているというのが実情です。

まちづくりや地方創生というテーマに意義を感じる方は年々増えていますし、地域に飛び込まないといけないというボトルネックがあるにしても、働きたいという意欲を持っている層は一定数いるという印象はあります。

実際に最初の1年間だけで、求人媒体からの応募は200件を超えました。ただ、スタートアップアップなので事業展開のスピードは非常に早いですし、地方でのんびり働きたいという人には向いていません。そのあたりの選考基準は一切妥協することなく、数十倍の倍率で絞っています。

この先100年持つようなビジョンを掲げて、それに対して課題解決をしながら、地域の未来を一緒に作っていく。マネージャーやスタッフだけでなく、地域に本気でコミットし、事業を共創していけるリーダーを、私達は求めています。

NEWLOCALは、5年で10箇所の地域に10億円規模の事業をつくろうとしています。すでに4箇所は立ち上がってきているので、あとは6箇所ですね。ある意味会社に所属しながら、一起業家として10億規模の事業創出に挑める環境はすでに整っています。あとは、アントレナーシップあふれる仲間を集めるのみです。

当社が蓄積してきたまちづくりのノウハウやネットワークを駆使しながら、新たな事業を作っていけるまたとないチャンスだと思いますし、これから地域間のシナジーも生まれてくるので、これから参画される方には最高にわくわくする展開が待っているかと思います。

日本から世界へ、まちづくりのエコシステム構築に挑む

アマテラス:

最後に、NEWLOCAL社の今後の展望についてお聞かせください。

石田 遼:

10箇所の地域に10億円規模の事業を立ち上げるというファーストマイルストーンは、十分に実現可能なところまできています。セカンドフェーズとしては、NEWLOCALはまちづくりのベンチャーキャピタル的な立ち位置を目指していく方針です。

つまり、当社が手掛けた10箇所の地域をモデルケースとして、同じようなまちづくりに挑みたい方に向けて投資やアドバイスを行い、横の連携を図っていけるようにしたいのです。長期的には海外展開も予定していて、海外のパートナーと一緒に、人口減少地域のまちづくりをしていく予定です。

「地域からハッピーシナリオを共に」という私達のミッション、そして「妄想に色を」「泥臭くあれ」「心を共に震わせよ」という3つのバリューのもと、私達はこれからまちづくりのエコシステムの構築に挑んでいきます。

グローバルな目線でいうと、まちづくりの視察と言えば、現状ポーランドか北欧がメジャーですが、ゆくゆくは日本がその仲間入りできるようにしていきます。そして海外から日本に視察に来てもらった時に、まちづくりの仕掛け人を紐解いていくと、裏側にはNEWLOCALがいる。そんな未来を本気で実現していくので、ぜひ楽しみにしていてください。

アマテラス:

本日は貴重なお話をありがとうございました。

この記事を書いた人

アバター画像


ただゆり

広島県広島市出身。国際基督教大学卒業後、外資系製薬会社のMRとして勤務。その後、心身を壊し、10年ほど障がい者雇用の現場を経験。30代で県立広島大学大学院に飛び込み、社会福祉学を専攻。並行して、社会福祉士資格を取得。「データ扱いではなく、人の物語に光を当てたい」との思いから、大学院卒業後、インタビューライターとして起業。その後、大阪のベンチャー企業の経営に参画し、ベンチャーキャピタルJAFCO様の広報サポートの他、スタートアップ領域の広報に広く携わる。2024年9月に合同会社そうを設立予定。アマテラスには、2022年8月よりパートナーとして参画。

株式会社NEWLOCAL

株式会社NEWLOCAL
https://www.newlocal.co.jp/

設立
2022年07月
社員数
11名

《 Mission》
地域からハッピーシナリオを共に
《 事業分野 》
Other
《 事業内容 》
NEWLOCALは、“地域からハッピーシナリオを共に”をミッションに、不動産開発を中心としたまちづくりを行い、人口減少社会における持続可能な地域モデルの実現を目指しています。独自の魅力を持ち、意思と行動力がある人々が住む地域において、地域の想いに寄り添い、人・アイディア・資金を集めることで、スピード・スケール・再現性をもったまちづくりを行います。現在は、長野県野沢温泉・御代田町、秋田県男鹿市、京都府丹後の4つの地域でビジネスを創出・展開しており、今後5年間で10地域への拡大を目指して活動しています。