私達の体をつくり、日々の健康を支える「食」。しかし日本では、食品の品質保持のために多くの食品添加物が使用されており、アメリカと比べると規制が緩いことから、以前より健康上の問題が指摘されてきました。
そんな従来の日本の食品業界のあり方を変えるべく、ITと食を組み合わせることで、一人ひとりに合った本当に健康的な食事を提供しようと取り組んでいるスタートアップが株式会社AIVICKです。
同社の代表取締役である矢津田智子氏は、もともとシステムエンジニアとしてキャリアを積んでこられた方で、ご自身が膠原病を発症した経験から健康に関心を持ち始めたという経緯があります。
AIVICK社も創業当初はIT事業を主軸にしていたため、事業の方向転換に踏み切り、ITと食という2つの領域を融合させたビジネスモデルを確立するまでには、大変な苦労があったのだそうです。矢津田氏の生い立ちからAIVICK社を立ち上げるまでの経緯、そして大きな事業転換を経て、今後どのような世界を目指しておられるのか、詳しくお話を伺いました。
代表取締役
矢津田智子氏
福岡県出身。高校時代は水泳の国体選手を経験。大学卒業後、ベンチャー企業でプリクラ黎明期のソフト開発に従事した後、2005年に株式会社AIVICKを創業した。当初はソフトウェア開発受託・人材派遣を主事業としていたが、食に対する課題意識から方向性を転換。4年の試行錯誤を経て、現在では冷凍宅配食サービス「FIT FOOD HOME」や冷蔵つくりおき惣菜サービス「シェフの無添つくりおき」等、テクノロジーを活用した個々人に合った「理想の食」の提供に取り組んでいる。
株式会社AIVICK
https://www.aivick.co.jp/
- 設立
- 2005年04月
- 社員数
- 62名
《 Mission 》
天寿を全うするまで
健康的な生活が送れるようにする
《 事業分野 》
FoodTech
《 事業内容 》
株式会社AIVICKは、「理想の食」のエコシステムの実現に向けて、「食と健康」の事業を展開する企業です。ICT技術を活用し、最小限のデータから最適解を求める新しい技術を開発することで、ひとりひとりが無理なく便利に必要な栄養素を摂ることができるしくみを作り、活き活きとした健康的な生活を送れるようサポートいたします。
- 目次 -
- 1 田舎暮らしと厳しい祖母から人としての学びを得る
- 2 水泳での経験を通じて伴走するメンターの必要性に気づく
- 3 バイトに明け暮れた大学生活を経てシステムエンジニアへ
- 4 エンジニアの激務からの膠原病発症とキャリアの見つめ直し
- 5 生きているうちに何かを成しとげたいという思いからの創業
- 6 経営者としての未熟さを痛感したリーマンショック
- 7 開発の失敗に負けず、さらなる挑戦に向けて単身渡米を決断
- 8 アメリカでの生活から「食の力」に気づき、新たな事業展開へ
- 9 ITと食の融合を目指し、4年かけてビジネスモデルを構築
- 10 メンター伴走のもと、ビジョンの再確認と事業の整理を進める
- 11 適切な「食」を誰もが選べる未来を叶えるための体制整備
- 12 ライフサービス市場における新たな価値創出に向けて
田舎暮らしと厳しい祖母から人としての学びを得る
まず、矢津田さんの生い立ちからお伺いします。現在に繋がる原体験のようなものがあれば教えてください。
私の生まれは、福岡県飯塚市の片田舎です。父と母は車の配送業をしていて、いつも忙しそうにしていたのをよく覚えています。早朝から深夜まで両親が仕事でいなかったので、私は祖母の家に預けられて、いとこたちといっしょに過ごしました。
時代的にも今よりのどかで、生き物の生と死を生活の中で感じる機会が多かったように思います。たとえば、子どもの頃、近所の養鶏場から大きな段ボールに入れて捨てられたオスのひよこを家に持ち帰り、育てたことがありました。途中で野生動物に襲われて食べられてしまうひよこもいましたし、無事に成長した鶏が最後、隣家の方に絞められ、食べ物になって私達の胃に入るといったようなことも経験しました。
そういった事も含めて、私は祖母との暮らしから人として大切なことを沢山教わりました。祖母はとても厳しい人で、悪いことをすればこってりと絞られました。片付けをさぼったまま外出したときなど、雨が降っていても家の中の物がすべて外に放り出されていたことがあるくらいです。当時は泣きましたが、おかげで整理整頓が身につき、今では片付け大好きといえるほどになりました。
また、テストで100点を取ったら50円、茶碗洗いや洗濯物干し等をしたら〇円をもらえるといった報酬制度があったので、いとこたちとも協力しながら、みんなで協力してお金を集め、遊び道具を買うといったこともしていました。今思うと、遊びを通じて、ゴールを決め、お金を得て、みんなで苦労した後の楽しさの意味を自然と学べる環境でもあったと思います。
水泳での経験を通じて伴走するメンターの必要性に気づく
小学校の頃は祖母のおかげで、塾やペーパーフラワー、ミニバスケットボール、上級生になって夏は水泳教室といろんな習い事をさせてもらいました。中でも水泳は、小学校最後の大会で大会新記録を出したことを機に、コーチから目をかけてもらえるようになりました。
中学校ではバスケットボール部に入っていましたが、コーチの勧めと周りの協力のおかげで夏休みの間だけ高校の水泳部に通わせてもらうダブルスポーツでスポーツ三昧をさせてもらえました。「全国に通用するようになれる」というコーチの言葉を真に受けて、インターハイや国体(国民スポーツ大会)を目指すようになりました。
高校時代に水泳を通じて得た学びのうち、私にとって最も大きかったものは目標達成の方法でした。1年生の時は与えられたメニューをこなすだけ、どうしたら一生懸命やっているふりをしてサボれるか?の日々でしたが、2年生になり、標準タイムに近づいたことで油断した結果、大会での成績が急降下。「何やってんだ?何のためにこんなにやってるんだ?このままじゃだめだ」と、初めてスイッチが入りました
そこから練習の取り組み方が一変しました。ゴールから逆算し、メニューを1つ1つ「何のために行うのか」考えるようになり、1日1日達成するべきことを明確化してから練習するようになりました。メニューを終えたあとも、練習記録をもとにフィードバックを行い、イメージトレーニングをしては、その内容も全て言語化するようにしました。
自分たちだけで改善できないときは、他校のコーチにも力をお借りし、「手足のタイミングが合ってないから、推進力が足りていない」という課題が明確になり、効果的な練習方法を教えていただきました。課題がわかれば、あとは改善に向けて練習の繰り返しです。
そうして積み上げること9ヶ月、最終的にタイムは大幅に改善され、大会でも成果を出すことができました。タイミングとバランスが重要というのは事業も一緒で、ある一部分だけが強化されたとしても、推進力を生み出すには全体を整えて、各部署各人がタイミングを合わせていく必要があると感じます。高校の時に、目標達成の過程でその重要性を体感できたのは非常に大きかったです。
また、この時の経験を通じて、強いメンターやコーチの必要性を改めて感じました。自分の課題を見い出すのは不得手でも、誰かに寄り添ってもらい、改善策を教えていただければ、その意見をもとに即実践できる。自分はそういう人間なのだと、理解できました。
バイトに明け暮れた大学生活を経てシステムエンジニアへ
大学に入った直後に、両親が当時行っていた事業の調子が低迷しており、仕送りが難しくなったと言われました。実家に帰ってきたらどうかという話も出たのですが、せっかく入学したのに諦めたくないと思いました。
そこからの私の目標は「大学を卒業すること」になりました。卒業するためには、当然ながら、お金が必要です。ひたすらバイトに明け暮れる毎日でしたが、優秀な友人たちの助けもあって必要な単位も取得でき、無事に卒業の目処が立ちました。
バイト三昧の大学生活でしたが、水泳一色だった高校時代とは異なり、友人たちとの交流も増えたことで、人間としての幅を広げてもらったように思います。ただ、大学卒業を1つのゴールにしてしまっていたので、卒業の目処が立ったとして、その先どう生きていくのか。当時の私は、人生の迷子状態でした。
自分にできることは何なのか。自分は何の役に立てるのか。ひたすら考えを巡らせ、一時期は助産師になろうとも考えたのですが、どうにも腹落ちせず、最終的には、自分を追い込める仕事にしようと、当時流行り始めていたシステムエンジニア(SE)職に目をつけました。
エンジニアの激務からの膠原病発症とキャリアの見つめ直し
私はエンジニア未経験だったのですが、幸いなことに、京都のベンチャー企業に採用いただき、MacやWindowsのC言語や画像処理の知識を実地で習得させてもらうことができました。
そのベンチャー企業では、初期のプリクラや証明写真のデジタル化など、革新的なサービスの開発に取り組んでいました。小規模な組織ながら、非常にビジネスセンスのある社長のもと、沢山の経験をさせてもらいました。大変なことも多々ありましたが、エンジニアとして基礎から徹底的に鍛えていただいたと思っています。
1社目のベンチャー企業勤務を経て、Web系の開発に興味をもった私は、東京に居を移し、派遣社員として大手メーカーの子会社に転職しました。そこでは、研究所向けのシステム開発に携わり、寝る間も惜しんで仕事に没頭しました。
仕事自体は充実していたものの、没頭しすぎて不規則な生活もしてしまい、自己免疫疾患の膠原病を発症し、体の痛みや炎症に悩まされるようになりました。症状が悪化していったことで、やむなく転職を選ぶことになりました。
もう少し落ち着いた環境で働こうと京都に移転し、別の会社で働き始めたものの、今度はその会社が買収されることになり、大規模な組織再編が行われました。そこで、あらためて「私はどんな仕事がしたいのか、どうありたいのか?」と、自分自身を見つめ直すことにしました。
生きているうちに何かを成しとげたいという思いからの創業
1社目のベンチャー企業でサービス開発をしていたこともあり、今思うと、請負業務や派遣の仕事に対する違和感が強くなってきていた時期だったのだと思います。また、膠原病の影響で、当時は風邪を引く度に入院を繰り返していたので、自分はあまり長生きできないかもしれないという予感もありました。
いつ終わるともしれない命なら、生きているうちに何かを残したい。そんな思いから、当時一緒に働いていたメンバー3名と、2社目で親しくしていた2名の、計6人で会社を立ち上げることにしました。これが、AIVICKの始まりです。
資本金もほとんどない状態でしたが、ありがたいことに、高校時代の先輩や友人たちが支援してくださり、総額1000万円もの資金を集めることができました。この資金を元手に、更に銀行からの融資を受け、事業を運営し始めました。
「何か世の中に役立つことを成しとげたい」という気持ちだけを原動力に走り始めたので、創業の目的も当初は明確には定まっていませんでした。ただ、当然ながら気持ちだけでは食べていけないので、売上に繋がりやすい受託開発などの請負業務から着手し始めました。
創業メンバー全員がエンジニアだったため、営業方法も料金の相場も何も分からないところからの手探りです。私自身も営業に携わりながら、試行錯誤を重ねつつ、優秀なエンジニアもチームに加えながら、業界へと切り込んでいきました。
想定外のトラブルにぶつかることもありましたが、そんな時はいつも祖母から教わった人としての価値観に基づき、取引先や関係者に「筋を通す」ことを大切にしてきました。どんな相手に対しても誠実でありたい。その思いは、常に強く持ち続けてきたつもりです。
経営者としての未熟さを痛感したリーマンショック
ところが、2008年になり、リーマンショックが起こりました。当時大きな取引先だった半導体業界が大きな打撃を受け、製造業の仕事も激減。それに伴い、Web開発も単価の叩き合いが始まり、厳しい時代に突入していきました。
AIVICKも例外ではなく、仕事がどんどん減っていきました。経営状態も厳しくなっていき、給料の引き下げや従来とは全く異なる業務請負を社員にお願いせざるをえない状況になってしまいました。
今思えば、経営者である私が社員たちに状況を的確に伝え、リストラや休業等の対処を潔くとれれば、傷は浅くすんだのではないかと思います。ですが、当時の私は未熟で、決断を躊躇い、不透明な対応をしてしまいました。
結果、社員の不満がどんどん高まり、組織から1人2人と離脱が止まらなくなってしまいました。最終的には、半導体製造装置関連の事業を全てやめて、Web事業に絞るという意思決定を図りました。
しかし、この判断は遅すぎました。一番しんどい判断こそ最優先にして、慎重かつ丁寧に行動すべきでした。当時開設していた東京オフィスも閉鎖し、京都拠点に絞りました。日本の融資制度のおかげで大きな借り入れができたので、会社としては生き残れましたが、当時経験した痛みは大きな学びになりました。
開発の失敗に負けず、さらなる挑戦に向けて単身渡米を決断
会社の危機は乗り越えたものの、社内の空気は依然として重く、先行きが見えない状況が続きました。仕事が乏しく、苦しい時期でしたが、逆にチャンスだと考えました。このタイミングだからこそ、サービス開発に全力を注ごう。そう決断を下し、出来る限りの資金調達を行いました。
そうして勝負に出たつもりでしたが、マーケティングの知識も技量もないまま進めた結果、新サービスは大失敗に終わりました。このままでは先が見えない。サービス構想を一新し、次のチャレンジのためにはより大きな資金を獲得しに行く必要がある。そう考えた私は、スタートアップ投資の先進国であるアメリカに渡り、エンジェル投資家を探すことに決めました。
英語もろくに話せない状態での渡米でしたから、今考えれば無謀にもほどがあった決断だったでしょう。それでも、資本政策についての実践的学びを得る機会を得れず、誰に相談していいかも全く分からなかった状況下でしたから、他に選択肢はないと思ったのです。
アメリカには結局、1年半ほど滞在しました。最初は水泳部OBOGの力を借り、その後は必死で起業家コミュニティを探し、そこで出会った方々の力をお借りすることで、ようやく少しずつ前進していく実感がありました。
資本政策について学び、通訳を介しながら資料のブラッシュアップを繰り返す日々の中で、私にある転機が訪れました。日本出身でアメリカで成功を収めたベンチャーキャピタリスト、原丈人さんと出会えたのです。
原さんは私のビジネスアイデアとテクノロジーを面白いと評価してくださり、「まずは日本でやるべきだ」とアドバイスをいただきました。原さんから日本の投資部長を紹介いただいたこともあり、日本への帰国を決めました。
アメリカでの生活から「食の力」に気づき、新たな事業展開へ
アメリカでの1年半の中で、もう一つ、大きな変化がありました。渡米した当初は膠原病の治療のために約3か月ごとに検査と診察を受け、薬を取りに日本に行く生活を送っていたのですが、アメリカで生活しているうちに、薬がなくても症状が出なくなっていったのです。
なぜ、そんな奇跡が起きたのか?その答えは、食生活にありました。アメリカでは、食事に対する意識が日本とはまるで違っていて、三大栄養素だけでなくその詳細やトランス脂肪酸などの栄養成分表記が徹底されていたのです。そのため、食事の管理が非常にしやすかったのです。
毎日自分で食事を作り、ランニングの習慣を日々継続する。そんな生活を続けているうちに、風邪を引いても入院するどころか、薬をやめても体調を維持でき、むしろ調子が良くなっていくのを感じていました。
風邪を引くと薬を使えなくなるのですが、風邪が治った後も症状がでないので薬をさらに1ヶ月止めて、病院で血液検査をしたところ、全てが正常値という驚くべき結果でした。しばらくは定期検査を続けましたが、最終的には問題なし。薬なしでも健康を維持できていることが分かりました。
この経験から、私は日本に戻った後、食に関する事業を新たに立ち上げようと決めました。一生治らないと思っていた病気を改善に導いた食の力をもっと多くの人に広めるべきだと感じたのです。
ITと食の融合を目指し、4年かけてビジネスモデルを構築
そうしてIT事業と並行して「食」の事業も展開しようとした矢先のことです。投資を検討くださっていた方から「事業が分散していると、投資できない。一つに絞ったほうがいい」と言われました。
そこで私は、どちらかを切り捨てるのではなく、「ITと食を融合させた領域」がないかを模索し始めました。そうして辿り着いたのが、「パーソナルフード」という考え方でした。AIの活用による個人に最適化された食事。その提供こそ、これからの未来に重要な位置づけを担うと確信したのです。
ITと食の事業を合併させよう。そう決意したのは2016年でしたが、2つのビジネスモデルをきちんと融合させることができたのは2019年。4年近い間、収益の中心はIT事業で、パーソナルフードの方はしばらく研究開発段階から脱出できないままでした。
とはいえ、経営上早期に収益化していく必要があるということで、添加物ゼロの社食事業を進めていたのですが、そこにやってきたのがコロナ禍です。顧客が9割減という大打撃を受け、会社の事業全体の方向性を大きく見直していくことになりました。
メンター伴走のもと、ビジョンの再確認と事業の整理を進める
そこからパーソナルフードの新事業の基盤を作っていく過程には、並々ならぬご苦労があったかと思います。特に困難だった点について教えてください。
心から追求したいと思っていたパーソナルの事業を始められないまま、目の前の売上優先の仕事ばかりになってしまっていたことが一番苦しかったです。複数の事業が混在し、リソースも分散したまま、会社としての行く先を見失いかけていたように思います。
お客様は「誰」なのか。「何」を解決するものなのか。そこをきちんと言語化した上で、もっと早く事業の取捨選択を行い、ビジョンに沿った行動に集中していれば、チーム一丸となって事業をもっと早く推進できたのではないかと思います。
様々な葛藤を抱えながら、それでも前に進もうとあがいていた時に、EOという起業家組織に出会いました。EOにはメンター制度があるのですが、高校時代に私を導いてくれた水泳のコーチのように、先輩経営者の方々に寄り添ってもらえたおかげで、自分ひとりではどうにもできなかったビジョンの再確認と事業の整理、自分の考え方のクセの矯正を進めることができました。
結果、社内の裏のミッションを「食生活習慣病撲滅」に絞り込み、無添加食品を求める、小さいお子さんがいらっしゃる共働き世帯向けに、作り置きの無添加食品を配達するtoCサービスに注力すると決めました。
新しいサービスに集中し始めてから、AIVICKのビジネスは急成長を始めました。月次の成長率は110〜130%に達しています。この成果によって事業は黒字化を達成。ここでようやく、パーソナルフードの事業に再挑戦するための下地が整ったのです。
適切な「食」を誰もが選べる未来を叶えるための体制整備
AIVICK社の今後の展望について、教えてください。
食の事業が黒字化したことで、心から追求したいと願っていたパーソナルフード事業のビジョンが、ようやく実現に向けて大きく前進し始めています。これまでAIVICKを支えてくれた方々、そして今も共に歩んでくれている従業員やお客様に恩返しをしたい。その想いが全体に浸透し、チームとして事業を前進させていけるようになりました。
AIVICKはこれまで何度も失敗をし、苦しい状況に追い込まれる度に、「自分たちの本当の強みは何なのか?」を見つめ直してきました。無添加の食品提供を支える冷やす技術やノウハウはもちろんですが、それ以上に、伴走くださる方々の力をお借りし、未知の知識をどんどん吸収しながら推進していく力こそが私たちの強みなのだと実感しています。
これからも様々な挑戦をしていくわけですが、今後の展望としてAIVICKが手にしたいと考えている力があります。それが、「消費者からの熱狂的支持による公益な革命力」です。
昨今の食ビジネスを俯瞰すると、科学的な裏付けに基づく発信が力を増している一方で、自然食のような文化的側面の強い領域に関しては、公に訴求しづらい部分があるように感じています。私たちはその両軸のバランスを取りつつ、適切な情報提供や教育を通じ、消費者が選べる食の選択肢を広げていきたいのです。
「食」とはそもそも何なのか。AIVICKでは、人の心身の健康を維持・向上させ、「幸せを感じられるライフスタイル」を支える基盤こそが食だと、定義しています。適切な知識に基づき、誰もが「必要な食」を自由に選べる世界。それが私達の目指す未来です。
ライフサービス市場における新たな価値創出に向けて
2050年を目標に「いつでも・どこでも・好きなものと必要なものを適切に食べられる世界」を創りたい。そのために私達はこれから事業をさらに展開させていきます。これからの事業計画は、大別して3つのフェーズに分かれます。
最初のフェーズは、女性のライフステージに合わせたつくりおき食の提供サービスや、個々の目的達成に向けたパーソナライズ食の提供に取り組んでいきます。2024年の現段階で注力している内容がこれに当たります。
そこから第2ステージでは、食の安全性を担保するトレーサビリティの確保や効率的なサプライチェーンの確立に向けて、ITの利活用を推進していきます。最後のチャレンジフェーズでは、「食」の移動にかかるコスト削減に向け、物流の改善にも取り組み、ライフサービス市場における新たな価値創出を実現していく予定です。
これらの計画を実現し、食の未来を変えていくためには、メンバー全員が自発的に進んでいける組織づくりが欠かせません。当社のポジションにはまだまだ空席があり、誰もが新たな挑戦を通じて成長できる環境が整っています。まだまだ成長の余地が沢山あるAIVICKですが、目標に向かって成果を出すことに楽しみを見出し、人としても成長し続けることを喜びとする人たちと一緒に進んでいける未来に日々、心を踊らせています。一緒に前進していける新たな仲間と、ぜひ出会いたいですね。
本日は貴重なお話をありがとうございました。
株式会社AIVICK
https://www.aivick.co.jp/
- 設立
- 2005年04月
- 社員数
- 62名
《 Mission 》
天寿を全うするまで
健康的な生活が送れるようにする
《 事業分野 》
FoodTech
《 事業内容 》
株式会社AIVICKは、「理想の食」のエコシステムの実現に向けて、「食と健康」の事業を展開する企業です。ICT技術を活用し、最小限のデータから最適解を求める新しい技術を開発することで、ひとりひとりが無理なく便利に必要な栄養素を摂ることができるしくみを作り、活き活きとした健康的な生活を送れるようサポートいたします。