音楽はコミュニケ―ションの1つ。“We are the world”を世界で一緒に歌い合っている状態を作りたい

株式会社nana music代表取締役社長 文原明臣氏

音楽を誰もが気軽に歌いあえる社会を夢見て、nana musicを創業した文原社長。
しかし、若き日の文原社長はF1レーサーを目指していました。そんな文原社長がなぜnana musicを立ち上げるに至ったのか?
文原社長の紆余曲折の人生とnana musicの今後について伺ってきました。

文原明臣氏

代表取締役社長
文原明臣氏

1985年10月生まれ。神戸高専機械工学科卒業。
19歳の時にF1の世界に惹かれ、モータースポーツの世界へ。プロドライバーを目指し、スーパーカート、フォーミュラへとステップアップするが、目標に届かず夢を断念。その後、2011年に音楽×ITを用いたよりよい音楽の在り方を構想し、nana music Inc.を創業。2013年4月にはnana musicの日本法人である株式会社nana musicを設立し、米国法人から日本法人へ本社移管。現在、株式会社nana music代表取締役社長。

株式会社nana music

株式会社nana music
https://nana-music.co.jp/ja/

設立
2013年04月
社員数
役員3名、社員13名(2016年10月時点)

《 Mission 》
音楽で世界をつなげる
《 事業分野 》
WEB・アプリ
《 事業内容 》
スマートフォンで歌声や楽器演奏を録音・投稿できるアプリ"nana"の開発・運営

自己主張ができない自分に苦しんだ幼少期

アマテラス:

まずは文原さんの生い立ちについて教えて下さい。文原さんの育った環境と学生時代の話をお願いいたします。

株式会社nana music 代表取締役 文原明臣氏(以下敬称略):

まず、家族構成は両親と9つ上の兄と僕の4人家族です。両親は神戸で昔ながらの喫茶店を営んでいまして、今も続けています。兄は9つも離れているので、兄弟ケンカした記憶は一切ないですね。

アマテラス:

そうですよね。若干親に近い感じですよね。小学校時代はどのような性格でしたか?

文原明臣:

小学生時代を振り返ると、人に対して何も言えない子でした。実家が喫茶店を営んでいてお客様商売の家庭に育ったので、両親が常にニコニコしているのを見ていました。その姿を見ていると、例えば、嫌なことがあってもニコニコしていればとりあえず済むので、全てにおいてあまり主張しないようになりました。ですから、いじめまではいかないけれども、からかわれたりはしましたね。ただ、そういうのがすごく悔しかった記憶はあります。

アマテラス:

そのような小学校時代を経て、中・高はどのような生活を送っていたのですか?

文原明臣:

スポーツは水泳やサッカーをやっていましたが、サッカーは中途半端な形でやめてしまいました。
高校に入ってから、空手を始めました。実は父親も兄もずっとやっていまして、空手は一生懸命やれましたね。格闘技をやったおかげで、物事に対しての自信を持つ事が出来るようになり、昔よりは主張ができるようになりました。

アマテラス:

空手を始めたのは、何か理由があったのですか?

文原明臣:

こんないい方すると大袈裟かも知れませんが、「嫌なことは人にしたくない」という思いがあります。でも、それはなかなか難しいことで、精神的に余裕がないと難しいと思います。そして、精神的に強くなるには肉体も鍛えなくてはいけないと思っていて、肉体と精神含めて強い人間になりたい、人にやさしくしている自分が理想像として昔からあったので格闘技を始めたのかもしれません。

モータースポーツとの出会い

文原明臣:

その後、モータースポーツの世界に飛び込むのですが、きっかけは教習所です。教習所に通ううちに、車を運転することがすごく楽しくなりました。それからF1を見始めたら、ちょうど佐藤琢磨さんが活躍されている時代だったので、彼のことを調べたら、その時の僕と同じ19歳でレースの世界に飛び込んで5年でF1まで行ったことがわかりました。それを知って、「僕もいける」、「僕も行きたい」と思うようになりました。

僕が一番何かを学べたのはモータースポーツだったと思います。モータースポーツに関しては本当に「F1レーサーになりたい」という目標があって、お金がない中でアルバイトをして稼いで、走っていました。カートはメンテナンス時に色々な作業があるので、1人だと面倒くさいことも多いのですが、それでも関係なく自分1人で毎週メンテナンスしては朝から晩まで走って、本当にのめり込んでやれたのがモータースポーツでしたね。

精神的にもすごく成長する機会が多くありました。ある程度までタイムが伸びると突然0.5秒が詰められなくなる時がきます。詰められない、毎週なかなかタイム上がらない…。途中ちょっと嫌になるのですが、そのままやり続けていると、気がついたら超えていたみたいなことがありました。それからは「成長するのは、そういうことだろうな」と思い、トンネルの真っ暗闇の中でもがいていたら、実は知らぬ間に出口を出ていたりするというような体験をすることができました。だから、僕は正しい方向に努力をしていれば、あるタイミングに報われるとは思っています。ただ、なかなか報われるタイミングはわからなくて、ある日気づいた時にいきなり出来るようになるものだと思っています。

F1レーサーを目指すも壁にぶつかり挫折

アマテラス:

F1レーサーになるためにどのような方法をとったのですか?

文原明臣:

鈴鹿サーキットが主催している『鈴鹿レーシングスクールフォーミュラ』というフォーミュラのスクールがあります。佐藤琢磨さんもこの学校の出身です。僕は選考を受けて、最終候補まで無事生き残って、首席で入学することができました。卒業もそのままトップだと、ホンダから奨学金が出てレースに参加できるのですが、それは叶わず、負けてしまいました。

結果的には、「やっぱり楽しんだ方が高いパフォーマンスが出来る」と思うようになりました。僕は根を詰め過ぎた分、自ら潰れていってしまいました。逆に、上位で卒業した人たちは和気あいあいとしたり、練習前日にサーキット入りするのですが、夜遊びに行っていたりしていました。でも、結局そういう人達が実践していたのは、「楽しんで勝つ」という一つの真理だったと思います。「そういうことがすごく大事だ」ということが教訓としてあって、今でも大切にしています。

アマテラス:

カーレーサーとしての夢を諦めるわけですが、それはどのタイミングでしたか?

文原明臣:

卒業してすぐです。2008年に結局ホンダから奨学生として選ばれることはありませんでした。24、25歳時点でF1にいないと通用しないのですが、僕はそもそも始めたのが遅いので、最短で登って行かなければならない。10年計画を立てて進めていたのですが、鈴鹿レーシングスクールフォーミュラの選考に受からなかった時点でどうしようもなくなってしまいました。そして、諦めざるを得なくなったのが2009年です。

アマテラス:

その後はどうされたのですか?

文原明臣:

何もしない時期もありましたね。
2010年にツイッターをやり始めました。それもちょっとしたきっかけで、何かを考えてツイッターを始めたわけではないのですが、ツイッターを使い始めて、何となくつぶやいて何となくフォローされて、フォロワーが出来て、「すごく面白い」と思い始めました。いろんな考え方を見ていくうちに、「レースしか知らなかったけれども、結構世の中は広い」と思うようになりました。

また、このタイミングで『Tech Crunch』のようなITメディアに出会いました。ツイッターでそのようなサイトを見ているとワクワクして、「自分自身もテクノロジーを活用して面白いモノを作りたい!」と思うようになりました。それは自分の中でのターニングポイントになり、率先していろんな技術を調べたり、その間にiPhone 3GSを初めて買って「iPhoneすごい!」と勝手に感動していたりしました。ボイスメモを使って自分でコブクロの主旋律歌って、それ聞きながらハモるみたいな遊びを1人でやったりもしました。

ハイチ沖地震をきっかけに音楽の素晴らしさに改めて気付かされた

文原明臣:

そんな中で、ハイチ沖地震後に誰かのツイッターで“We are the world for Haiti YouTube edition”という動画を見ました。それ見たときに物凄く感動しました。音楽は中学時代からスティービーワンダーの歌が好きで、歌えるようになりたいと思っていました。元々“We are the world”のコンセプトも好きで、世界中を一つにしようと考えている点に憧れていました。“We are the world”は実質的には“オールアメリカン”で「世界中を一つに」というコンセプトは実現できていないと考えていましたが、インターネットの力は、“We are the world for Haiti YouTube edition”は、人種、国境を超えて音楽でつながることを実現していました。ただ、まだ甘くて、日本人がいないとか人種が限られていました。それにインスピレーションを貰って、ポケットの中に入っているスマホをパッと開いて「こいつがマイクになる。これにただ歌えば向こう側に届いて、一緒に歌い合ったり、セッションし合ったり、一緒に音楽が出来れば、本当の意味でも“世界を一つに”を実現できるのではないか」と思いました。

それから自分なりにプログラミングを勉強し始めると、「可能じゃないか!」とどんどん自信が出てきて、ワクワクしながら勉強していました。F1の夢がダメになった瞬間にいろんなものがつまらなくなっていましたが、また目指せるものが出来たので、ワクワクし始めて、「絶対いける」と思って動き始めました。

アイデアをもとに起業の仲間を募る

アマテラス:

それから起業の道に進まれると思うのですが、いろんな苦労をされてここまで来ていると思います。どの点で苦労されて、どのように乗り越えてきたのかを教えていただけますか?

文原明臣:

まずは人集めが大変でした。やりたいものの、自分だけでは何も作れないので、チームを作らなければなりませんでした。「とにかく一緒にやってくれる人を探そう」と関西で開かれているWebの飲み会や、ITに関わっている人達が集まるような場所に行って、会う人に提案していたのですが、興味を持って頂けてもそこから先に話が進まないことが多々ありました。

その後もIT系の勉強会に定期的に参加していましたが、ある日勉強会のメーリングリストに「今度テックウェーブの方が東京から来られます。新しいモバイルのサービスを考えている人を探していて、誰かプレゼンしてみたい人はいますか?」というメールが流れてきました。その時に「チャンスだ」と感じて、テックウェーブの方と、ソーシャルマーケティング会社の役員の方の2名に話をしました。そこで勉強会の主催者とソーシャルマーケティング会社の方が興味を示してくれました。また後日話をすることになり、東京に行くことにしました。東京でもお会いして、ついでにツイッターで東京のWeb系の方々と繋がっていたので、そういう人達とお会いして、一週間ぐらい滞在しました。
結局、そのソーシャルマーケティング会社の方との話は進まなかったのですが、たまたま滞在先のシャワーが使えなかったので「銭湯ないかな」とツイッターでつぶやいたら、返信が来て、その方のプロフィールを見るとエンジニアと書かれていました。アイデアをメッセージでやりとりして興味を持っていただいたので、渋谷で話して「何か面白いから手伝う」と言ってくれたのが今のCTOです(笑)。

アマテラス:

ツイッターから拾うのはすごいですね。

文原明臣:

その時は全てがチャンスに見えました。
それから実際に動き出したのですが、彼はサーバーサイドの専門なので、他にもフロントエンドのエンジニアやデザイナーが必要でしたが、なかなか見つけることが出来ませんでした。
そんな時に神戸のコワーキングスペースに立ち寄りました。そこの代表に話したら興味を示して下さり、その方がUstreamで配信している番組で告知することになりました。それに東京の方が賛同してくれ、デザイナーを紹介してくれました。
また、その時にたまたまIT系の人たちと10人位でシリコンバレーに行くことになりました。その仲間たちに「今iOSのエンジニアを探している」と話したところ、「知り合いにいるから紹介します」と言ってくれました。旅から戻って紹介してもらったら、その日に「やります」となり、ようやくiOS、デザイナー、サーバーサイドのメンバーが揃いました。

アマテラス:

最低限、システム作るメンバーがそろったのですね。

文原明臣:

メンバー集めに8カ月掛かりました。それがスタートまでの大きな苦労でしたね。
その後、MOVIDA JAPANからの出資の話も決まり、集中して取り組める環境が揃ったので、東京に出てきました。

リリース前に大きな困難にぶつかる

文原明臣:

ここから2012年3月にリリースする予定で動きました。出資も決まったので、iOSの方にはフルコミットしてもらい、12年3月に間に合うように動いてもらいました。しかし、このままだと間に合わないことがわかり、フリーでやっているiOSのエンジニアを連れてきて2人体制で対応するようにしました。その人にお願いして、定期的にミーティングはして、そこで口頭の確認だけで別にコードは確認していませんでした。「今これくらいです」、「あとどれくらいです」、「あと大体これくらいです」とやりとりをして、リリースの直前に出てきたのが1行も書かれてないコードでした。

でも、何とかリリースにこぎつけなければいけないので、別のiOSのエンジニアをご紹介頂いて、その方が手伝ってくださったので、また進み始めました。

この時は本当に大変でした。開発が進まない、最初の500万円がもうない、何とかしなければならない…。個人の伝手で投資してくださる方を探して、何とか出資頂けることになりました。そして、2012年8月にリリースにこぎつけました。

リリースするも、キャッシュアウト

文原明臣:

当初はテック系メディアに取り上げられました。しかし、1000、翌日700、翌々日200、更に50とダウンロード数が減っていきました。そうなると、逆にリリースしたからこそお金が集まらなくなりました。投資側からすると「もう少し様子を見たい」という状況だったのだと思いますが、ダウンロード数が伸びず、見込んでいたお金が一切集まらずにどんどん減っていきました。
そして、僕はメンバーを心配させたくなくて、皆とお金に関する話をしていませんでした。コミュニケーション能力が不足していたのだと思います。

アマテラス:

社長が一人で考えていろいろ動いていて、その情報共有が出来てなかったということですか?

文原明臣:

言ってしまえばそうですね。それ以外にも、お酒が得意ではなかったので一緒に夕飯を食べに行くようなことも全くしていませんでした。僕はお金の心配をさせたくないからお金に関する情報をシェアしなかった。でも、皆の言い分からすると、お金の問題は重要だからコアメンバーくらいには共有して、一緒に考えてやればいいという考えがあったようです。物凄く正論ですが、当時の自分はそこまで頭が回らず、勘違いをさせてしまったと思っています。

その後2013年2月にはキャッシュアウトしてしまい、何もできない状態がしばらく続きました。
この頃、カフェにいた時にパニック症候群になりました。突然動悸が激しくなってトイレでしばらく休んだのですが、それは困りました。

結局、支払日が来たら、謝ることしかできませんでした。いろんな人たちに謝って回りました。
そして、本当にありがたいことに、全員に何とかご理解頂くことができました。例えば、コワーキングスペースを貸してくれていた友人は次の増資が入るまで支払いをずっと待ってくれました。
直前はパニック症候群になりましたけど、超えるともうどうしようもないことですから、何とか乗り越えることができました。

ただ、資金繰りの問題は依然あり、皆のモチベーションも下がっていく中で徐々に人がいなくなりました。それによって開発が出来なくなったのが、2013年5月頃です。フロントエンドの人間も辞めてしまい、そこからはもう「キャッシュはどうする?」、「サーバー代だけは何としても止められない!」といった状態でした。そんな状態でしたが、サービスは伸びていました。

資金繰りに苦しむも、サービスは徐々に好調に

アマテラス:

ダウンロード数は伸びていたのですか?

文原明臣:

はい。徐々に伸びていましたし、絶対にいけると思っていました。モータースポーツでやりたいことを諦める経験をしていて、「絶対にやろう!」と諦めたくない気持ちが強かったです。当時は、その気持ちが支えになりました。
しかし、開発ができないので、開発メンバーを何とか集めようとしました。そして、フィリピンで働いていたiOSエンジニアにリモートで手伝って貰いました。そのように外注で開発メンバーを引っ張ってきて、少しずつ開発は進めていました。

アマテラス:

なるほど。資金の方はどうなさったのですか?

文原明臣:

資金の方は相変わらず難航していました。一度VCからの出資が決まりかけたのですが、他社から断られたことがきっかけで頓挫したこともありました。そんな中で、お世話になっている方に相談していた時に個人投資家を紹介されました。その方にその飲みの席でプレゼンしたら、気に入って頂け、その方の友人である音楽系事業会社の代表を紹介して頂きました。お会いしてから2カ月で出資が決まりました。

早く開発したいから、その時点でサーバーサイドのスタッフを1人雇いました。開発も動き出して、サービスもタイムリーに伸び始めました。
サービスは徐々に伸びていたのですが、その出資が入った2013年末時点でユーザー獲得がデイリーベースで以前の6倍程になっていました。ちょっとしたことなのですが、アップルストア上のスクリーンショットやターゲット、タイトルを変えただけで新規ダウンロード数が6倍になりました。

アマテラス:

ちょっとした工夫で変わるのですね。

壁を乗り越えてわかったこと

文原明臣:

結局、資金の問題やチーム作りの課題、これらを全部乗り越えられたのはモータースポーツでの体験があったからだと思っています。夢が断たれて鈴鹿レーシングスクールフォーミュラから、鈴鹿サーキットから帰る時に、車の中でボロ泣きしました。その悔しさがあって、「次は絶対に諦めたくない、負けたくない」という思いがありました。あと、「このサービスは絶対間違ってない」と確信していたので、耐えることが出来たと思っています。

アマテラス:

やり続けていれば、必ず逆転できると?

文原明臣:

「絶対何とかなる!」と思っていました。

アマテラス:

振り返ってみて、成長すべき点は見つかりましたか?

文原明臣:

お金まわりの認識の甘さとチームのコミュニケーション不足です。『スタートアップベンチャー』には簡単に資金が集まるものだと思っていました。あとは、メンバーとの情報共有の甘さ。今は、もう少し資本政策を共有するべきだと思いますし、サービス作りという点でもチームを一致させる取組みを徹底してやりたいと思いますね。

nana musicが目指す「当たり前に歌い合える社会」

アマテラス:

資金繰りを乗り越え、これから更なる成長局面に入っていくわけですが、これから社会をどう変えていくのでしょうか?

文原明臣:

当たり前に人と歌い合うことやセッションし合うことが出来るような社会を作りたいですね。僕の頭の中にあるのは、“We are the world”の歌が世界中で、人種も国境もすべて超えて一緒に歌いあっているのが当たり前に出来る状態を作りたいと思っています。
僕は、音楽は1つのコミュニケーション手段だと思っています。ジャズの中でもブルースは、元々シカゴの奴隷が娯楽の代わりに雇い主への文句を一定のリズムに乗せて罵倒するという大衆娯楽から始まっています。僕はそういう音楽が好きです。コミュニケーションとしての音楽という捉え方をしていて、それが当たり前にできる状態に世の中を変えたいという気持ちがあります。

ビジョンの実現のために必要なこと

アマテラス:

そのビジョンを実現するために、今不足しているのは何でしょうか?

文原明臣:

もちろんまだまだ小さな会社なので全部が足りていませんが(笑)、特にマネージャー層が不足しています。一番必要だと感じているのは、プロダクトマネージャーです。プロダクトに関して全部を統括して見る人がいません。全体を管理できて、経営側に例えば「マネタイズをこうしたい」とか、「僕の思想的にこういうことはしたくない」、「ユーザーからはこういう声がある」というような指摘ができる人物が欲しいです。

フラットな組織を作りたいのは当初からあったのですが、一方である程度指揮系統が明確化していることも会社として必要なのかなと痛感しています。それをやらねばならないのが短期的な課題です。
中期的に考えると、マネタイズをいかに成功させるかが課題になってきています。今年度の目標としては、マネタイズをきちんと回収して一定の数値までもっていきたいですね。

アマテラス:

プロダクトマネージャーが欲しいという話がありましたが、求める人物像はありますか?

文原明臣:

個人的には、すごく面白いものを作っていると思っています。面白いものを自分の手で作っているということは、ある意味全員クリエイターの側面を持っていると思います。そして、クリエイターは自分のアウトプットのたった1ミリのズレすら嫌がる、こだわるものです。その感覚はこれからもすごく大事だし、すごく愛おしいものだと思います。例えば、ほんのちょっとでも「何かおかしい」と思うのなら、そこはこだわってやると絶対良いものができると思っています。楽しんでこだわりを持てる人が理想的ですね。

アマテラス:

今のタイミングで、nana musicで働く魅力について教えてもらえますか?

文原明臣:

今はデスバレーを抜けてそれなりに成長軌道に入って、数字もある程度ついてきています。ですから、いいタイミングでスタートアップを経験することができます。当時ほどの苦しさもなく、むしろ今からだと「国内で当たり前のサービスになっていく」、「世界で初めて通用する日本初のサービスになっていく」という目標と夢に向かっていけるので、いいタイミングだと思います。
まだ組織としては未熟なので、自分でこだわりをもってこうやりたいと言ってくれれば、基本的にはそれができる環境です。「ワクワクする面白いこと作ってみたい」とか、「グローバルでやってみたい」と思っている方には楽しんでもらえる場所だと思います。

アマテラス:

グローバルのユーザーは何か国くらいですか?

文原明臣:

先月で投稿あった分で113ヶ国です。

アマテラス:

113ヶ国!すごいですね。

文原明臣:

でも、海外で何が出来ているかというと、ほとんど何も出来ていません。一定のユーザーがいるだけの状態なので、このあたりももっとテコ入れをしていきたいです。

アマテラス:

これからの成長に期待しています。文原さん、貴重なお話をありがとうございました!

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アマテラス編集部

「次の100年を照らす、100社を創出する」アマテラスの編集部です。スタートアップにまつわる情報をお届けします。

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https://nana-music.co.jp/ja/

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2013年04月
社員数
役員3名、社員13名(2016年10月時点)

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音楽で世界をつなげる
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WEB・アプリ
《 事業内容 》
スマートフォンで歌声や楽器演奏を録音・投稿できるアプリ"nana"の開発・運営