『ChatWork』という日本発のサービスを世界中の人々が使って喜んでいる、そういう光景が僕の中では夢です。

ChatWork(チャットワーク)株式会社代表取締役社長 山本敏行氏

シリコンバレーに拠点を置き、ビジネスコミュニケーションツールを展開する「ChatWork」。
導入企業は世界約200ヶ国、70,000社以上に渡る。

山本社長は大阪出身で帰国子女ではないがシリコンバレーで活躍する日本人の代表格。
2015年5月、安倍首相がシリコンバレー訪問の際に、シリコンバレーで活躍する日本人起業家を集めた朝食会にも参加。
そしてリンクアンドモチベーションが決定している社員満足度の高い会社で2年連続1位(@日本)に輝いている。

私は自分と年が近く、同じように日本で育ちながら、グローバルに活躍する山本社長の生い立ちにとても関心があり、インタビューさせていただきました。その行動力の源と創意工夫の原点に迫りました。

山本敏行氏

代表取締役社長
山本敏行氏

1979年3月21日、大阪府寝屋川市生まれ。
中央大学商学部在学中に、EC studioを起業。
2011年3月1日、クラウドベースのチャットツール「ChatWork」の販売を開始。
2012年、ChatWorkに社名を変更。米国法人をシリコンバレー、サニーベール市に設立。

ChatWork(チャットワーク)株式会社

ChatWork(チャットワーク)株式会社
https://go.chatwork.com/ja/

設立
2004年11月
社員数
84名(2018年時点)

《 事業分野 》
WEB・アプリ
《 事業内容 》
クラウド型ビジネスチャットツール『ChatWork』(http://www.chatwork.co.jp/)の運営。

小さい頃から起業家になろうと思っていた

アマテラス:

いつごろから起業を考えていたのですか?

ChatWork株式会社 代表取締役社長 山本敏行氏(以下敬称略):

2歳ぐらいの時、親が音楽スタジオを起業してからですね。その時から父親は経営のことばかり話していて、そういう事を無意識に聞いていたというのはあります。

他には家に通称社長コップと言う社長と書かれたコップがありまして、それは、ただ社長ってもう、びっくりするぐらいの文字で書いてありました。その社長コップでお茶を飲んでいたので、社長になるのは普通のことだと思っていたところもあると思います(笑)会社に勤めるより社長になることの方が自然という感じは小学校のころからありました。

毎日社長コップでお茶を飲んでいたので、自然に社長になることは意識してしまいますよね。例えば娘をスタンフォード大学に入れたかったら、毎日スタンフォードと書いてあるコップでお茶を飲ませたらいいと思います(笑)

親は刷り込みをするつもりはなかったと思いますけど、社長コップの刷り込み効果はありました。新橋のサラリーマンがニュースで愚痴を言っているのをみて会社に勤めるのは違うのかなと思ったのは憶えています。

アマテラス:

親が起業家という家庭環境だったのですね。

山本敏行:

そうですね。音楽系の起業家です。ローランドというシンセサイザーなどで有名な会社から独立して音楽スタジオを起ち上げていました。子供二人いるところから起ち上げたのですごいなと思います。

うちの家系は起業家スピリットというか、人を引っ張っていくスピリットを持っていて、おじいちゃんは大手の鉄鋼会社の常務でした。その祖父は校長先生だったとか。うちの父親より上はみんな超ハイスペックです。東大か京大しかいないみたいななか、うちの父親はバンドマンで、浪人で大阪電気通信で一番レベルの低い大学出身です。本当は大阪阪大学以上でないと許してくれない家系なのですが、その大学入学が許されたのは、おじいちゃんがその大学の存在をしらなかったかららしいです(笑)

うちの父親はちょっとある意味ディスラプター(*安定した状態を変える人)みたいな感じですよね。山本家代々のディスラプターみたいな感じです(笑)そんな父親に育てられたので小学校の時に社長になるという思いは僕にとっては普通でした。

アマテラス:

起業の原体験になるようなエピソードがあれば教えてください。

山本敏行:

小学校の時に、お金に関して強い思いを持つエピソードがあります。
小学校時代、お小遣いは学年+100円というルールでした。1年生だったら200円。2年生だったら300円。3年生だったら400円。月にそれだけしかお小遣いをもらえなかったのですが、僕はその時にどうしてもラジコンがほしくて、そのためにお金をずっと貯めていました。

お年玉も1回も使わず、財布に全部いれて貯金していました。コツコツ貯めて小5の時にその財布をもってラジコンの図鑑を本屋さんに買いに行ったんです。そしたら買い物し終わった後に、中3ぐらいのヤンキーが「ちょっと財布みしてぇや」と近づいて来ました。

「財布?財布なんで見たいん?」となりますよね。そしたら「いやちょっと財布見るだけやから。」「ほんまに?」みたいになって。最終的に「ほんまに見るだけやから」ということで財布を渡したら、ヤンキーは財布持った瞬間にダーッと自転車で逃げ出しました。今まで貯めに貯めたお金なので絶対に取り戻そうと思って、自転車飛び乗ってあとを追いかけました。相手は中3で年上だったのですごく速かったですが、それよりも僕の思いが勝って追いつくことができましたが、二人組の一人が道を遮って、一人が財布持ってバーッと逃げて捕まえられず。僕はもう「盗られたー。」と目の前真っ暗になりながら家に帰りました。家に帰りついた瞬間、もうワーッと泣いて。4,5年貯めたお金をカツアゲされたのでショックだったんです。

もうすごく悔しくて、「絶対犯人見つける」と言って調べました。親戚のお兄ちゃんから卒業アルバムを貸してもらって見ていたら、財布とったやつに似ている人がいたので「そいつや!」と。で、そいつをリサーチして家まで突き止めました。

「絶対取り戻したる。」と、母親に相談しました。「おかん、みつけたから取り戻したい」と言って。ですがおかんは相手が有名な不良の子というのを小耳にはさんだらしく、「やめとき。お金なんてまた入るんやから。」と言って僕のことなだめました。結局買ってくれることもなく泣く泣くあきらめ、小5からまたお金を貯めないといけなくなってしまいました。

うちの親は経営者でお金に対してシビアで、玩具の類を買ってくれず、それも手伝ってかお金に対する執着心は当時からあったと思います。友達には毎日100円もらっている子もいたりして、僕の数倍から10倍ぐらいのスピードでお金が貯まっていました。ずっと悔しい思いをしながら、待つしかないという小学校時代でした。

アマテラス:

小5が中3のヤンキーを追いかけるというのは相当勇気があったのですね。

山本敏行:

小学校の頃から空手を習っていて、それもあってか理不尽なことや諦めることが嫌いでした。たとえばもし彼女がいたとして、彼女と一緒にいる時、不良にちょっかいをかけられそうになっても怖いから何もできないというのはすごく嫌です。たとえ自分に何かあったとしても守りたいというか…。そういう想いは強いですね。後で話しますがアメリカに対しても、「アメリカはすごい、日本だからしょうがない」ではなくて、アメリカに対しても僕は対抗したいというか。日本人の本当の力を出せば対抗できるという想いはあります。その頃からあるのは強いものに対して折れない、妥協しないという思いですね。

しかし、小学校の頃は理不尽なことに対して諦めざるを得ませんでした。ラジコンが欲しいと言いながら、欲しいものが手に入らないのは悔しかったです。でも小学校でお金稼ぐわけにはいきませんから、どうしようもない。

中学校に入ってから、家計が苦しかったわけではないのですが、うちの母親が自分のお小遣いのために内職し始めました。線香の箱を作る内職だったのですが、それを見つけて「おかん、何やってるの」と話しかけました。「内職してんねん。」と言うので、いくらくらいになるのか聞いたところ「1日1000円ぐらいにはなる」と。1日1000円ということは月3万円だったので、当時の僕からしたらありえない金額だったので驚きました。

中学校に入ったらお小遣いは中1で月1000円ぐらいになっていましたが、やっぱりそれでは足りないので「それ俺できへんの。」と聞いてみました。母は少し笑いながら「できるけど」と言うので、それから毎日、家に帰ったら内職しました。

部活終わって帰ったら、内職して1000円稼ぐ毎日を続けました。自分のために自分で稼ぐ、親に甘えないというのは小さいころから徹底していました。というのも、うちは父親が超厳しくて、甘えたら後でなにか言われるのは分かっていたので甘えたくなかったというのが本音ですね。ですから「自分のことは自分でなんとかしなきゃ」と。

毎日線香の箱作りの内職したおかげもあり、中学生時代で月3万円ほど稼いでいました。

普通の中学生なら親に「内職やるなら勉強しろ」ぐらいのことは言われると思うのですが、うちは父が学歴重視ではなかったので、あまりうるさくなかったです。勉強で良い成績取っても褒められなかったので、勉強は二の次でした。

高校になっても内職は続けていて…。(笑)

こうして考えるとよくやったなと思うのですが中1くらいから始めて、それ以外収入源がないですから、当時の感覚としてはやらざるを得なかったんです。学校から帰ってきたら1時間から2時間ぐらい、歯磨きと同じ感覚で線香の箱を作っていました。

お金は自分で稼ぐもの。中学時代から内職をはじめ、高校でITビジネスで月20万円稼ぐ。

アマテラス:

中学時代から自分でお金を稼ぐ意識がある山本さんはとても自立されていたんですね。 高校時代のお話を教えてもらえますか?

山本敏行:

小学校の時のことがあって、強いものに負けたくないという思いはありました。少なくとも自分に自信をつけておきたかったです。怖気づいたり自信がなくなってしまったりしては嫌だという感覚はありました。そこで高校では実践的な格闘技をやろうと思って、格闘技系の部活がある高校を選びました。高校になったら彼女もできるだろうし、いざというときに守れなかったら意味がないので、いままでやっていた「型」だけの空手ではなく、実践形式の格闘技です。

日本拳法という格闘技なのですが、部活で防具つけてグローブつけて面つけて胴つけて本気で殴りあっていました。普通にパンチ、キック、投げ、関節技あり、みたいな。防具ありの総合格闘技だったので、関節を痛めたりなどの怪我はしますが顔が腫れたりすることはなかったですがとにかく実践的でした。

本気で殴り合うことは怖いとも思いましたが、強くなりたかったのであえてそういう高校を選びました。結局志望校として選んだのは大阪桐蔭高校なのですが、一般受験で入ると偏差値がめちゃくちゃ高かったので「強くなりたい」というモチベーションでがりがり勉強しましたね。

偏差値も高いし、スポーツも強いということで文武両道の高校みたいに見えますけど、実際は一般入学とスポーツ入学を完全に分けていて、文武両道と言う訳ではありませんでした。勉強する人は、勉強する。スポーツする人はスポーツするという具合ですね。それで日本拳法だけ唯一、進学コースにある部活でした。そこに入部しましたが勉強が忙しく週3回しか部活の練習がないんです。

他校の部活は週5、6日練習していたのでその点で既に他校と差がありました。大阪桐蔭は練習時間が少ないながらも勝つのが文武両道という言い方をしていましたが僕は勉強より断然部活を頑張っていました。

彼女がいた時に守ってあげられるような男になろうと本当に必死に練習していました。そして付き合った彼女は部活のマネージャーでした(笑)。その練習の成果か、高校2年で全国大会でベスト16になりました。関西でベスト8に入ったら全国大会に出る権利があって、それで全国ベスト16になって。それだけの成績が出せたので3年生だと勘違いされて大学のスカウトが来ました。

そこまでは進学コースで、部活もやって、彼女もいて、自分は健全な高校生かなと思っていました。弟も同じ高校に入学してきましたが弟は進学コースで勉強とコンピュータで、いわゆるオタクでした。僕はそれが不健全にみえて、外に連れ出したり、練習に付きあわせたりしました。するとある時父親に怒られたんです。「この日本を作っているのはオタクやぞ!」と。父親はエンジニア出身だったのでオタク寄りだったんだと思います。

「そっかぁ」と妙に感心し、自分は格闘技で破壊的な行為をしているけど、弟はゲームを作ったり生産的なことをしているのかと思って、弟の部屋に入ってゲームを見せてもらいました。その時弟がやっていたのがインド人とアメリカ人と弟が対戦しているゲームでした。それを見て衝撃を受けましたね。「そんなの意味が分からない」と。1995年でパソコン通信しかない時代にそんなことやっている弟が信じられませんでした。思えば、ゲームを作って雑誌で表彰されたりもしていたので彼はすごい技術家だったんだと思います。そこで「なぜこんなことができるのか」と弟に聞くと、彼は「このコンピューターと電話線がつながっていたら世界中が繋がるんだ」と言ってきて(笑)頭に衝撃を受けて、そのまま弟からパソコンを取り上げました(笑)。そうしてニフティサーブのパソコン通信にのめりこんでいきました。

アマテラス:

山本さんがパソコンに出会い、人生が変わった瞬間ですね。パソコンでどんなことをされたのですか?

山本敏行:

パソコン通信を使って筋トレグッズを売ったりCDを売ったり、売れるものを売りました。これが結構稼げて、高校生で月20万ぐらい稼いでいました。

自慢ではないですが、あの時の20万は今でいう200万ぐらいかもしれないですね(笑)。でも部活も勉強も忙しかったのでもっと効率的に稼ぐ方法はないかと探していました。
すると、仕事掲示板みたいなのがあって、月3万ぐらい稼げる在宅の仕事がたくさん掲載されていました。これはひょっとしたら主婦層にニーズのある情報なんじゃないかなと思い、試しに主婦の声を聞いてみたらお仕事探していますという声がたくさん上がってきました。子育てしながら、家でできる仕事なら月5000円でもいいという方もいました。そこで僕が持っている求人情報をその方々に売ればいいんじゃないかと考えました。筋トレグッズは売ってしまったら無くなるけど、情報は無くならないと思ったんです。

アマテラス:

山本さんは今でいうクラウドソーシング事業を20年も前に始めていたんですね。

山本敏行:

そうですね(笑)もう20年も前のことですけど(笑)僕はなんでもやるのは結構早い方なので(笑)働きはじめるのも早いし、パソコンに目をつけるのも早かった。

ネットで見つけた求人情報を仕事を探している主婦に2万円で売り始めました。少し高めですが消費者も翌月には3万円稼げるので割とあっさり売ることができたので、あとは求人情報をアップデートしながら販売していくというビジネスです。

そこで問題なのはどうやってパソコン通信の中で露出を高めていけるかでした。掲示板に書き込みをするとその横にアクセス件数が出てくるんですね。アクセス数が高いものは、多くの場合キャッチーな文言があり工夫されていました。こういうのがクリックされやすいんだなとか、独学でマーケティングを学んで露出を高めていきました。

コピー文言のうまい人を真似して改善して。真似して改善して。経費はほとんどかからないビジネスで、自分が高校生であることと関係なく老若男女にモノを買ってもらえる。当時それがすごく快感でした。高校生の僕に、売ってくれてありがとうと大人が敬語で言ってくれる。ものすごくうれしかったですね。

内職の時は、作ったものを渡して、お金が振り込まれるだけでお客様の声が全く分からなかったのですが、ネットでの商売はありがとうと言ってもらえた。もし顔が見えたら僕が高校生だったので買ってもらえなかったと思いますけど(笑)僕が自分の2倍以上も歳が離れている人とビジネスをしているというのは、すごく楽しかったです。

アマテラス:

お金を稼ぐために働くということから、ITビジネスを通じて働くやりがいを感じ始めたということですね。

山本敏行:

そうですね、その時はインターネットでもっと何か出来ないのかという感じでした。とにかくインターネットに衝撃受けすぎてそれ以外何も考えられなかったですね。同じ場所にいないのに情報のやり取りがされている!とにかくこれだ!という感じですね。

その時はもう勉強もせず授業聞かずに「どうやったら売れるか」ばっかり考えていました。
とはいえ進学校なので、大学進学のことを考えていなかったわけではなかったです。僕は中央大学に行くと決めていました。それが高校2年生の時です。高校2年生の時に誘われたんです。中央大学のスポーツ推薦です。中央大学は日本拳法部の強豪で全国トップレベルだったのでどうしても中央大学が良かった。
「中央大学いいなぁ、東京やし」と思っていました。父親にも一回は東京住んどけと言われていましたし。大阪にだけいても東京に劣等感持ってしまうし、学生の間だけでも東京行っといたら劣等感持たへんから行っとけと。父親は英語とパソコンだけはやっとけと中学の時くらいから言ってました。父にとって英語は音楽で、パソコンはエンジニアだったのだと思います。自分が出来なかったからあれだけしつこく言ってたのかもしれないですね。英語とパソコンだけやってたら勉強せんでもええからと言われていました。僕はどっちもやらなかったんですけどね(笑)。

それでも父親の言うことは頭の片隅には残っています。今英語を使う環境に住み、コンピュータの会社やってますからね。今シリコンバレーに住んでいるので、学生時代に英語をもっとちゃんとやっていればスムーズにだったのにと思いながら、あくせくしつつもなんとかやっています。

高校3年生の時の話に戻りますね。 高校3年生の全国大会直前に監督がK-1選手みたいな強そうな人を連れてきました。“おう、おまえらこいつと練習せい”となって練習したんです。日本拳法は本来防具つけているところしか蹴ってはいけないのですが、彼は何を思ったのか防具のない私の太ももを思い切り蹴ってきて、筋肉が断裂しました。

大会の一週間前だったのに、膝がまっすぐな状態から10度くらいしか曲がらなくなってしまいました。全国大会は大学進学を決めるセレクションも兼ねていましたがもう立てないんですよ。それでも出るしかないので、出ました。始まる時に蹲踞(そんきょ)という挨拶の姿勢があるんですけど膝が曲がらないのでできない。一人だけ違う変なポーズになっていました(笑)。

セレクション合格の条件はベスト8でした。高2の時にベスト16だったのでそれを超えれば合格でした。しかし結果はベスト32。だからセレクションは駄目でした。

中央大学ではセレクションは毎年2人取っていて、“今回セレクションでは取れなかったが山本は大阪桐蔭だから中央大学の夜間部ぐらい通るだろう”と思われていました。仮に僕が中央に行けたら、全国トップレベルを3人も取れるわけです。残りの2人は喧嘩しかしてきていないような人たちだったので、コーチも頭働かせたんでしょうね。山本、お前夜間部やったら入れるぞと言ってきたんです。僕も中央大学には入りたいけど、勉強していなかったので昼はとても無理だったんです。

夜間の受験科目は英語と数学しかなくて、みんながセンター試験の勉強を必死にやっているなか先生に僕は英数しかやりませんからと宣言して(笑)先生はあきれていましたね。進学校だったのでセンター試験は受けて当たり前。どこの国公立に行こうか、という高校なので、呆れるのも無理はありません(笑)。センター試験くらい受けとけとは言われましたが、中央大学しか行く気がなかったので結局学年で一人だけセンター試験を受けませんでした(笑)。

中央大学に入学、上京。

アマテラス:

そんなことがあったんですね(笑)それでも念願の中央大学に入学。大学時代はどうでしたか?

山本敏行:

大学に入ったら、楽しみにしていた部活にはヤンキーみたいなのばっかりで(笑)。セレクションで入る人は強ければいいので喧嘩しかやってきてないような人ばっかりだったんです。大阪桐蔭は勉強ばかりで勉強以外に時間を使うなと言う高校だったんですけど、今でも忘れられないのは大学の学生寮でのことです。僕はセレクションでの入部ではないので一人暮らしでしたが、他の部員はみんな寮に入っていました。自然と寮には顔を出す機会が多くなり、ある日寮に行くと先輩に呼ばれて、“山本~、マリオカートするか?”と言われました。その場面は衝撃でした。え、マリオカートですか? 自分の時間マリオカートに使っていいのか?と思いましたね。いや僕マリオカートはしないです、なんて言うと、何だ山本、お前マリオカートしないのかと驚かれ、先輩達に変な新入生扱いされました。その時はえらいところに来てしまったぞ、と思いましたね。

部活の練習はやっぱりきつかったです。部活の仲間からしたら先輩がいない僕の家が居心地が良くてたまり場になっていました。その時もネットビジネスをやっていましたが、稼いでる事が周りにばれたら「奢ってくれ」と言われるに決まっているので周囲には隠していました。僕は頭の中ではビジネスしたいと思っていましたが、ばれたらまずいので部活仲間が帰った後、夜3時とかからビジネスしていました。テレビの下に段ボールおいて、その中にビジネス用品を入れて隠して(笑)。

ビジネスできそうな人間が周りにいれば隠さずにその人とビジネスをしていたのかもしれませんが、その時にビジネスの仲間を周りからは探そうとは思わなかったです。みんな殴ることしか考えてなかったので(笑)。拳法部以外のコミュニティを探そうと思って一回そういうコミュニティに参加したんですけど丸卓を囲んで、早稲田、早稲田、早稲田、早稲田、慶応、早稲田、早稲田、中央。えっ、中央!?みたいな感じでしたよ(笑)なにか合わないなと思って行かなくなりました。

ネットで出会った台湾人女性を追いかけて。休学してロサンゼルス(LA)へ。

山本敏行:

3年生の時にアイスホッケー部の友達で、軟派な奴が土曜の夜に遊びに来て、「あー女の子と喋りたいわ。お前と喋ってもおもんないわ」みたいなこと言うんです。「そんなんいわれてもしゃーないやん。土曜の夜にうち来てそんないわれても」とは思ったのですが、マイクロソフトが提供している、いろんな国の人とつながれる「ネットミーティング」というツールがあって、それを使って時間潰しをしようとなりました。

そこにはアメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど当時のいろんな国の裕福な子が凝縮されていました。女の子と喋れそうだし、じゃあ登録してみるかとなりました。それで登録して、話しかけようとしたら、なんと女の子から声をかけてきたんです。しかも結構かわいらしい子で。

向こうから話しかけてきて、「あれ?違う」みたいなこと言ってるんです。あとで聞いた話なんですが、彼女は台湾人で、日本に日本人の彼氏がいるらしくてその彼氏の名前が「トシオ」なんです。僕の名前が「トシユキ」なのでハンドルネームが両方「TOSHI」だったので間違えてかけてきたんですね。

通信を切ろうとしたので、「ちょっと待って」と言って話しました。台湾人でなんでこんなに日本語喋れるの? どこに住んでるの? などと話しているうちに香港の株で儲けていて学生なのに新宿に4畳半の広さに家賃10万の家に住んでいたりして僕は彼女すごく興味持って、向こうも大阪弁を面白がってくれて、また会おうとなりました。 会ってみると3歳上なのに日本語ペラペラ、英語ペラペラ、中国語ネイティブ。株で儲けていて、この人いったいなんなのと思ってすごい興味を持って、で、好きになっちゃったんですよね。しかも向こうも興味を持ってくれている感じがしたので、付き合ってほしいと言ったら、嬉しいけど私一か月後にLAに留学するんだよね、と言われました。

これは僕にとってある意味チャンスだし、それでも付き合ってほしいと言いました。遠距離になるよと言われましたが大丈夫と言ったんです。どうしても付き合いたかったので、もう無理矢理でした。そして付き合うことになったんです。それから1か月後に彼女はLAに本当に行ってしまって。僕はそこから頭の中がLAですよね(笑)。

それが大学3年生の時です。部活はもちろん続けていたのですが当時腰を怪我してあまり練習が出来ていませんでした。そこで台湾人の彼女が出来て、しかもビジネスもしたい。このまま部活のマネージャーとして続けてビジネスを夜中にやるか、アメリカにいる彼女を追いかけてLAでビジネスするか迷い始めました。昔からお父さんにも、英語とコンピュータだけやっとけと言われましたし、同時にアメリカに劣等感を持つなと言われていました。だからアメリカに行くのもありだなと。

結局その後アメリカに行くのですが、僕がアメリカに行ったのはドットコムバブル全盛のアメリカに意図的に行ったわけではなく、彼女を追いかけてアメリカに行ったらたまたまドットコムバブルだっただけ(笑)。

アメリカのLAに行くために3年生から大学を休学しました。幸いだったのがスポーツ推薦ではなかったことです。スポーツ推薦だとスポーツやらないなら大学辞めろと言われてしまうこともありますが、僕は普通に入学して部活入って、腰痛めて部活できなくなっただけでしたので特に問題はありませんでした。まあ確かに体育会系なので辞めるというのは言いにくかったですけど、なんとか認めてもらって留学しました。

部活辞めて、しかも1年も休学して留学に行くので周りにはLAには語学留学で行くと言っておきました。でも結局のところ単に彼女についていっただけです。別に英語をやりたいわけでもないし。LAがどこかも知らないし。LAとカリフォルニアの違いがわからないレベルでアメリカに行ったんです。向こうでは彼女の家に住まわしてもらいました。彼女は台湾人の友達の女の子と住んでいたので、その子と彼女と僕の3人暮らしですね。車ないし、居候だし、英語しゃべれないのでずっと家にいました。

ただネットビジネスは海外でも出来ました。むしろネットビジネスはアメリカでものすごく発展していてインターネットが無料で24時間使えた。どこにでもメール無料ですし、その頃は日本で迷惑メール防止条例の前だったのでアメリカから日本のみなさんに営業メールをばんばん送ることができました。
そのおかげもあり稼ぎはあったので生活には困らなかったんですが、向こうで一番困ったのは台湾の彼女の気が強さです。気が強すぎて喧嘩すると出て行って、となるんですよ。僕は彼女の家に居候だったのでもう何も言い返せないですよね。最後はもう「土下座して。」みたいな。日本人が一番屈辱だと思うことを知っているんです。それで僕は一回だけかな、土下座したのは。いまだに土下座したときのこと覚えています。その時には彼女のことを好きではなくなっていました(笑)。

いつも彼女と喧嘩して、学校も通えず車もなくて家で暇でした。その頃やっと日本の中小企業がホームページ(HP)を持ち始めましたが、僕から見たらみんな下手くそに見えたんです。キャッチコピーやデザイン、文章の書き方まで僕はもうずっとやっていたのでそんなんじゃ客来ないよ、と思ってしまいました。そこでホームページを使い売上アップの支援するビジネスをやろうと思いました。そのビジネスを始めた時を創業と言っていて2000年の7月15日、“EC studio”という屋号でサービスを始めました。LAにいながら日本向けにサービスを提供していたんです。

日本では「A8」や「バリューコマース」というアフィリエイトサービスが生まれた時代に僕はアメリカで「アフィリエイトプログラム」を買い取って日本に売ったりしていました。「アフィリエイトプログラム」は日本のアフィリエイトサービスより高機能で快適で安く、日本でも需要があると直感しました。だからそれを買い取り日本で売ろうと考えたわけです。でも英語表記なのでそのままでは日本で売れない。そこで当時日本で大学生をしていた弟に翻訳してくれって発注していました。

弟は最初、こんなものやりたくないと気乗りしなかったみたいですが、ユーザーが結構増え、フィードバックが来るようになると弟も面白いと思うようになったみたいでした。そこで日本とアメリカ、という遠い距離ではあったのですが、弟とうまく連携してビジネスを進めていきました。その頃には僕は台湾人の彼女の居候をやめて自分で家借りましたが、ようやく立場逆転して(笑)、今度はその彼女がうちに住むようになりました。でもその頃にはもう本当に好きではなくなっていたので、少し冷めた態度をとっていたと思います。

その時に家を借りたのはチャイナタウン近辺で、周りは中国人台湾人ばかりで日本人はマイノリティでした。彼女は周りが同郷なのをいいことに中国語で、私はTOSHIに捨てられそう、と言いふらしていたようで大変でした。「あの日本人はひどい奴だ」ともう会う人、会う人に詰め寄られて(笑)。

でも今思えばその留学時代のいろんな経験のおかげで、アメリカとはこういうところだとなんとなくわかり、いざシリコンバレーにチャレンジするときも、アメリカである程度の生活ができるイメージがありました。そのイメージがあるのとないのでは全然違いますね。留学中は何かと大変でしたけど、それがなければシリコンバレーにもチャレンジできてなかったと思うと、行って良かったなと思いますね。

帰国。大学卒業し起業を考えていたが、一転、父の会社に就職。

アマテラス:

留学後はどうされていたのですか?

山本敏行:

日本に帰ってきて、最初は自分でビジネスをやっていこうと思っていました。大学を卒業する頃に僕のことを採用してくれる会社があるのか確認したいと思い就活をしましたが、受けたすべての会社から内定をもらえました。これが自信になり、自分は失敗してもどこかで雇ってもらえると思い、すべて辞退し、自分で会社起こすと決めてそれを父親に伝えました。すると父親が大阪から飛んで来ました。父の頭の中では大手の会社に2、3年就職して、自分の音楽スタジオを継いでほしいという気持ちがあり、「よくわからんネットビジネスはだめだ」と最後は7時間くらい説教されて根負けして起業の夢を諦めました。

父親からは大学生ぐらいまで、勉強しろとは言われなかったですし、音楽をやれとも言われず英語とコンピュータだけやっとけ、という感じでしたが自分の会社を継いでほしい思いは強かったですね。確かにコンピュータをやれとは言っていましたがネットビジネスなんて浮いたものに息子が流れていくのは許せなかったみたいで、「わかりました。」と最後は根負けしました。でもこのネットビジネスだけは続けさせてください、ということだけは言って、分かったいいぞと。

父親の音楽スタジオで半日働いて、後の半日自分の仕事をするのはいいと言われました。父は働いていくうちに僕のビジネスはダメになっていくだろうと考えていたと思います。そして東京から大阪の実家に戻りました。

そこから自分にとって地獄の始まりでした。父親は自分の事業を継がせたいと思っているので、まずは僕のビジネスを辞めさせるために毎日3時間以上の説教でした。本当に毎日怒られました。そのせいで時計の針を眺めるのが癖になってしまいました。しかも怒られている内容に一言反発するとプラス1時間伸びます。なにか発するとどんどん怒られる時間が伸びていくので、すべて「はい」と聞かざるを得ない状況でした。

父の周りには、父が音楽スタジオをやっていることもあり、生まれてから音楽しかしていないような人たちばかりでした。父は息子がそうなってしまうのはまずいと思ったのでしょう、あえてあんまり音楽に触れさせないように教育されてきたように思います。だから僕は音楽にあまり興味も持っていませんでした。それなのに大学を卒業した瞬間、「音にさえ携われていればいい」、素で「No music,No life」と言ってしまうようなスタッフやお客さんの中に入っていきました。

すると、自分がそういう人種ではないと気付くんですよ。仕事がきついというよりも、居場所がないというか。音楽やったことないし、お客さんほど音楽好きじゃないですし。そのせいか、父の音楽スタジオで働いている間、精神的にやられちゃいましたね。

お客さんからどのギターの弦が良いですかとか聞かれても、わからないですし。熱をもって仕事していなかったので、受付で来客対応して、裏戻って自分のネットビジネスをして「すいませーん」と言われて、また受付に戻って、その繰り返しでした。
当時は出勤も父の車で一緒に通勤して週6日間働き、しかも毎日3時間以上怒られて。最長で連続36時間怒られたこともありました。ノンストップでご飯も食べず、睡眠もなくずっと立ちっぱなしでです。

父はこのスタジオがどれだけすごいのか、ということも含め仕事の姿勢などを僕に伝えたかったんだと思います。でもその熱が僕には重くて、4階建てのスタジオだったのですが、休憩時間に毎回空を見上げに屋上行って「いつ飛び降りようか」なんて考えてしまう、苦しい音楽スタジオ時代でした。

一方で自分のビジネスのお客様はどんどん増えていきました。でも社員の採用はもちろんさせてもらえません。社員が増えたら責任も発生しますしね。なので自分で徹夜でネットビジネスして、次の日の朝出社。仕事しては徹夜という生活でした。

人生はこんなに辛いのかという時期が2年半くらい続いていました。僕の人生って何なんだろうとお先真っ暗な感じでした。いかに派手に自殺して死ぬかを考えたりもしていました。

その間もネットビジネスはどんどん忙しくなり、働けるのは一日の半分しかなかったので、遠隔で人を雇うことにしました。今で言うクラウドソーシングですね。チャットで仕事をしながら在宅スタッフの方に仕事を振る、ということをスタジオから指示出していました。時間がないので業務効率を意識せざるを得ず、その経験のおかげで僕の業務効率は日に日に良くなっていきました。

するとそのチャットで指示を出していた一人で、僕の三つ下くらいの方が突然、「僕、山本さんの下で働きたいです」というんです。実際に会うと「山本さん、僕はもう決めました。山本さんの下で働きます。もう親にも親戚にも言ってきました」と言うんです。ええっ!僕に言う前に先に親戚に言ったの?と(笑)

「仕方ないな」とこちらも覚悟を決めて会社を作ることにしてそれを父親に告白することに決めました。その日は朝からもうドキドキが止まらなくて、中学生の時に好きな女の子に告白するくらいのドキドキでした。もう夕方には血圧あがってか鼻血が出始めたりしました(笑)

“僕はもう自分のビジネスでやっていきたいと思っています。”と父親に伝えました。
父親はなんでも基本的にNOと言うのですが、本気でこれをやりたいんだと思っているときはすんなりOK出ることがあるんですね。東京に行きたいと言ったとき、LAに行きたいと言ったとき、自分で会社作りたいと言ったときは僕の決意が固かったのもあったかもしれませんが、分かったという感じで認めてもらえました。
色々と言われましたが僕は雁字搦めにされていところから一気に解き放たれました。

オフィスに机を買って、椅子もパソコンも買って、自分の自由に時間が使える。受付の裏で作業して「すいませーん」と作業を中断されることもない。法人設立と同時に在宅スタッフでやってくれていた人たちを自分のオフィスに招集して、自分のやりたいことのために自分の時間を100%使えたので、水を得た魚のような、それこそうれしくて天にも昇る気持ちでしたね。

社員満足度の高い会社で日本一を2度受賞。ChatWorkのマネジメントとは。

アマテラス:

そして紆余曲折を経ながらChatWorkは今に至ってくるわけですが、御社のマネジメントスタイルや働く魅力について教えていただけまますか?

山本敏行:

もともと自分の体育会系譲りの“根性論”のマネジメントスタイルで、設立当初は社員が次々と辞めていく会社でした。頭が痛くなったり、お腹が痛くなったりすると、“それは気合が足りない。いいから会社に来なさい”という具合です。

経営について無知だった私は2005年に「1年間に1000人のCEOに会って経営のアドバイスを受ける」という目標を立て、とにかく経営者に会いました。1日3時間程度の睡眠だったと思います。

IT社長はできるだけ避けました。ITビジネスは伸びているので経営者の力量以外の理由で伸びている可能性があり、社長が若いこともありました。成熟している市場でも継続して成長している会社の経営者や経営経験豊富な方を中心に話を聞き、ある経営者に“原因自分論”というアドバイスを頂きました。“人が辞めるのは社員や環境が悪いのではなく全部自分のことだと捉えなさい。”ということでした。それから自分をよくすれば周りも変わるはずだと思うようになりました。

その後、様々な会社のマネジメントスタイルを取り入れ、自社に合うスタイルを作り上げていきました。2008年にある人材組織系企業の“モチベーションサーベイ”という組織診断を受けたところ「社員満足度が日本一という」結果が出ました。そこで出てきた課題を解決するとまた翌年にはポイントが上がって再度日本一になりました。2年連続で社員満足度日本一ということで多くのメディアから取材を受けるようになりました。

良いビジネスリーダーの共通点として、自分の事業についてとても熱く語ります。仕事を楽しみ、決して社員のことを悪くいいません。自分も良いビジネスリーダーを目指していきたいと思っています。

社風が良いというのはあると思います。ギスギスしてないと言うか、成果さえ残せばよいというわけではなく、お互いのことを思いやって仕事ができていますね。会社と個人のベクトルが揃っているのが大きな特徴です。それは経営陣は社員第一主義、社員はユーザー第一主義を掲げながらやっているので、会社も社員もユーザーもみんながハッピーになれるようになっています。

アマテラス:

社員第一主義とはどのようなことでしょうか?

山本敏行:

例えば無理な要求をしてくるお客さんがいたとします。社員は基本的には上司から何とかやってくれという感じで言われるのに、お客さんからも無理な要求されたらそれはきつくなりますよ。そういう場合は経営陣も要求内容を見て、判断するようにしています。これが単なる甘えの時は頑張ってとなりますが、これはひどいなという要求だった場合は経営陣が出て行ってそこは社員をしっかり守るという形にしています。

アマテラス:

働きやすさや待遇面での特徴も教えてもらえますか?

山本敏行:

例えば年間10連休を4回取得できたりと様々な制度が整っていることがあります。ですが本当に核の部分は、社員にはChatWorkを通して自己実現をしてほしくて、やりたいことができるということがあります。例えば、新卒でエンジニアで昨年入ってきた社員の実話ですが最近台湾に彼女ができまして、そこから台湾にはまって中国語めちゃくちゃ勉強してるんですね。それでChatWorkが東南アジア進出しますというときは台湾担当にしてほしいと言い出しまして、「でも、君はエンジニアだよね」と。でも台湾切り開くのを全力でやりたいというので、マーケティング部に移籍して、今台湾に移住して活躍しています。今までコードしか書いたことのないような社員がですね、マーケティングも初めてだし、採用も初めてだし、グローバル展開も初めてですが必死でやってて楽しそうなんです。そして、台湾のユーザーが急速に増え始めています!その人が本当にやりたいことを見つけてやらせてみるというのは意識してやっています。それが一つの事例で、他にも新しい社員が来て既存の部署に得意分野がなかったら新しい部署を造ったり、社員がこれやりたいですと事業を提案してきて、ChatWorkの事業と全然違うものだったらグループ会社作ってその社員を社長にしたりですね。そういうことをやってきています。

社員のやる気は尊重してやらせますが、その代わりその分野で一番になることを求めますね。僕はこの分野だったら誰にも負けないというのを追及してくれと。それ以外の自分が苦手な分野に関しては会社のみんなでカバーしていくから、その分野に関しては世界トップレベルになろうみたいな。そのための環境はぜんぶこっちで用意すると。そういう考え方でやっています。

ですから会社採用の時から君は何をしたいのか、将来どうなりたいのかを聞いています。本人が将来どうしたいかを考え切れていない場合もありますが、そういったときはこっちから掘り起こしてあげて、こうなりたいんだったらこういうことを何年間かやっていけばそっちの方向に行けるし、君のやりたい方向はうちとは全然違う方向だけど、それはうちに来て大丈夫なの、とかもありますね。

僕たちとの相性もあるとは思うのですが、日本発のサービスを世界に広げていくという考えに共感できて、日本を背負って戦っているような人が良いですね。
また僕らはマザーズ上場を早い段階で達成して、東証一部、NASDAQへとその後もグローバルに成長して戦っていきたいとので、自分の人生を賭けて一緒の船に乗ってくれる方ですね。

アマテラス:

最後に山本さんの夢を教えてください。

山本敏行:

ChatWorkという日本発のサービスを世界中の人々が使ってくれて、喜んでくれている。そういう光景は僕の中では夢ですね。日本では結構そういう状態が出てきていて、ユーザーの方から“ChatWork作った方なんですね、めちゃ使ってます”と言ってもらえることが増えてきました。とても嬉しいですが、まだまだ知名度もないですし、シリコンバレーでそういう状況を起こしてみたいというのはあります。

アマテラス:

山本さん、素敵なインタビューありがとうございました!

この記事を書いた人

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藤岡 清高

株式会社アマテラス代表取締役社長。iU 情報経営イノベーション大学客員教授。 東京都立大学経済学部卒業後、新卒で住友銀行(現三井住友銀行)に入行。法人営業などに従事した後に退職し、慶應義塾大学大学院経営管理研究科を修了、MBAを取得。 2004年、株式会社ドリームインキュベータに参画し、スタートアップへの投資(ベンチャーキャピタル)、戦略構築、事業立ち上げ、実行支援、経営管理などに携わる。2011年に株式会社アマテラスを創業。 著書:『「一度きりの人生、今の会社で一生働いて終わるのかな?」と迷う人のスタートアップ「転職×副業」術』

ChatWork(チャットワーク)株式会社

ChatWork(チャットワーク)株式会社
https://go.chatwork.com/ja/

設立
2004年11月
社員数
84名(2018年時点)

《 事業分野 》
WEB・アプリ
《 事業内容 》
クラウド型ビジネスチャットツール『ChatWork』(http://www.chatwork.co.jp/)の運営。