事業意欲旺盛な家系に生まれ、人一倍、「新事業を創出すること」に熱い思いを持っていた青木社長。21歳で立ち上げたリサイクル事業が後に、建機の国際オンライン取引プラットフォーム『ALLSTOCKER』に発展。ベンチャースピリッツ溢れる青木社長の生い立ちや今後の展開についてインタビューしました。
(2016年11月時)代表取締役社長
青木隆幸氏
2011年:早稲田大学大学院会計研究科(MBA)修了
2011年:建設機械のネットによる買取り事業「グッドトレード」開始
2014年5月:SORABITO株式会社を設立
SORABITO(ソラビト)株式会社
https://www.sorabito.com/
- 設立
- 2014年05月
- 社員数
- 21名(2016年11月時)
《 Mission 》
「世界中の明日をつくる」
《 事業分野 》
web・アプリ
《 事業内容 》
働く機械の国際オンラインプラットフォーム「ALLSTOCKER(オールストッカー)」の企画・開発・運営。日本をはじめとした良質な建設機械・農業機械などの「働く機械」を、新興国等、世界中の人々に届けるためのプラットフォーム「ALLSTOCKER」を築き上げようとしています。
- 目次 -
チャレンジすることを良しとする家系で育った幼少時代
青木社長の生い立ちを教えてください。
名古屋で祖父母と両親、兄弟4人の8人の大家族で長男として育ちました。青木家は伝統ある家柄らしく、私は直系8代目で、正月やお盆には親戚が40人程度集まるような賑やかな家で育ちました。家系を辿っていくと、代々、様々な事業をやってきて今の家があるらしく、先祖を敬え、新しいことに挑戦しろ、ということを祖父や父から教えられてきました。
父は主に建設業をやっているのですが、ハワイでお寺の改修や苺の高設栽培もしていました。様々なチャレンジをして一族を守ってきた経験から、やりたいことをやろう、という価値観を大事にしています。
伝統ある家ながら新しいことにチャレンジする家風なのですね。
はい。愛知に住んでいて、事業家の方が周りにもたくさんいました。父より年配の方がいろんなことにチャレンジされていて、父もそれに感化されたところがあるかもしれないですね。隣町は盛田昭夫(ソニー創業者)さんの出身地で、豊田初期の創業地でもあり、そういった外部要因あっての青木家の気質かもしれません。僕の妹も起業していて食育をテーマに新しい農業を広めています。
事業意欲旺盛な環境だったのですね。そんな青木さんの幼少時代から学生時代についてのお話をいただけますか?
本当に田舎でした。ゲームもやりますが、それより自分たちで秘密基地を作ったりして外で遊んでいました。隣近所も仲が良く、歩いていると果実、枇杷を貰う等、ほのぼの系で過ごしていました。
そして青木家は基本的にチャレンジするのであれば何をやっても許されるような家でしたので、普通の家なら心配して止めに入るような事でも、うちの家族では「やってみれば?」と言われます。そういう環境で育ったので、ブレーキ思考ではない人間になりました。僕自身も幼少期、自分がやりたいと思うことをやってきました。高校ぐらいから家業の手伝いを始め、父と仕事で接点を持つようになっていきました。
家業の手伝いとは具体的にどのようなことをされていたのでしょうか?
大規模な建設がちょうどあった時期で、国際空港関係で道路などのブロックを運んだりする手伝いをしていました。手伝っていたのは夏休みなのですが、手伝いすぎて筋肉が付き、秋の体力測定で学年2位になりました(笑)。また、その時期に行政関連の仕事をやっていて偉い方の家の管理もしていました。その後の起業にも繋がる話しですが、愛知県半田市の元市長、深津家を管理させてもらったのを機に家族ぐるみでお付き合いするようになり、僕が深津さんの家に届け物をするようになりました。訪問するとご家族で歓迎してくださり、そこから何かあれば深津さんに人生相談をさせてもらうようになりました。例えば、家業を継ぐのか、次の会社をやるのかなど人生の節目で助言をいただきました。その時期はマイクロソフトにスポットが当たっていた時期で、世界でチャレンジ出来たら面白いと思うようになっていた時期でした。将来について相談すると、「後悔ないようにやってみたら」「一回外に出てチャレンジして、うまくいかなければ戻ってくれば良い」と外に出るのを応援してくれたのは起業を後押ししてくれたきっかけです。
21歳、リサイクル事業で起業。経営を学ぶ必要性を感じ早稲田MBAへ
21歳の時、リサイクル会社を父と立ち上げました。リサイクルは当時、市の施設だけでは回っておらず、民間から何かできないかということを市・自治体という枠にとらわれずに考えた結果、会社を作ろうという結論になりました。
若くしての起業は良い経験になりました。「こういう風に会社を作るのか」「ビジネスではこういう人たちが関係してくるのか」「製品の良し悪しや交渉の良し悪しより大事なのは、その人(買い手)を好きになることなんだ」等に気づいたのがその時期です。
21歳で起業というのは本当に早いタイミングですが後押しした要因があるのですか?
当時、市のリサイクル事業にいろんな方々が関わり規制が生まれていたため、第一号の店を作る事が最も大事だったので、その時しかありませんでした。
周りが助けてくれたというのもあります。何かをやってみたいとずっと思っていて、何かをやるなら家業よりも大きいものを作って、父を認めさせたいと思っていました。ただ自分ひとりでやってもあまり上手くいきません。なので、助けを借りるしかない。
結局、父含め、様々な人の力を借りて事業を起こすことができました。しかし実際の経営は難しく、父にかなり助けてもらい、自分自身は大学を卒業するまで大きなチャレンジはせずにきた印象です。その悔しさからもっと殻を破りたい、経営をもっと勉強したいと思うようになりMBA(経営学修士)に行くかどうか悩みました。実はこの時も(半田市元市長の)深津さんに相談しました。その結果、MBAには色々な方々がいますし、自分がこれまで学べていなかったところを勉強できることからに行くことにしました。これから事業をやっていくためには、戦い方、勝ち方があるんじゃないか。それを学ぶ必要がありました。そして早稲田大学大学院会計研究科(MBA)に進みました。
父の仕事を見て建機流通業界の非効率さを感じていた。ITの力でこの業界を変えたい
MBAを取得し、現在の事業(建機販売の国際オンライン取引プラットフォーム)に至るまでの経緯を教えてください。
MBA在学中から起業プランを練り、事業家をしていた仲間に起業の相談をしていました。就職を考えていた時期もありましたが、相談する人のほとんどから「起業するチャンスがあるならやってみたら」と言われました。今、やれる環境があるならやってみよう、ということでMBA修了して2011年から事業を始めました。
在学中から中古の建機販売というアイディア自体は持っていました。ですが、それよりも前に、海外からモノを仕入れてきて国内で販売するのは商売としてありだなと思っていました。例えばバイマ(http://www.buyma.com/)さんがやっているようなモデルです(*海外在住のバイヤーから世界中のブランド品を購入できる通販ビジネス)。同じようなビジネスを大学院の頃にやってみようと思い、実際に、安く仕入れて高く売る商売をやりました。その時に、三万円のものを売るのも百万円のものを売るのもあまり手間が変わらないと思ったのが、今のビジネスを実現するきっかけになりました。もし本当に手間が変わらないのだとしたら、高額なものを売ったほうが良いと思い、その時に建機を商材にすることを思いつきました。なぜ建機なのかは家業に由来します。父が元々建設業をやっていた影響で建機自体をいかに安く、有利に仕入れてくること大切さをわかっていました。幼少時代、父は僕を連れて国外のオークションで建機を買ったりもしており、その光景をそばで見てきたのも一因かもしれません。建機を買取るには国内外に点在するオークション会場や売り手拠点に自ら足を運んだ上で売買交渉に望まなければならず、業界には大きな非効率が生じています。ですから、建設機械を仕入れるのに苦労していた父を見て、一つの解決策になれれば、と思いITを活用した建機の販売を考えたのです。
幼少のころから建機が目の前にあって、建機の横に座らされた写真もあるくらいだったので、建機の販売をすることに違和感はありませんでした。
MBA修了後、建設機械の買取り販売をスタート。仕入れ先としてリース会社との関係を深める
建設業界をより良く変えていくベンチャービジネスですね。
はい。ですが今のようなオンライン販売プラットフォームビジネスから始まったわけではなく、最初は中古建設機械の買取り販売貿易からスタートしました。仕入れた建機をヤフオクで売買していたり、直接貿易会社の方を通じて海外に販売したり、国内のオークションに参加させてもらったりしました。
仕入れ先として建機などのリース会社とお付き合いを深めていきたいと考えました。そして、有力リース会社のK社長との出会いが大きな転機になりました。Kさんは日本のリース会社をまとめているリース業界の会長もされているような方でした。あるきっかけでKさんの会社の40支店の倉庫の整理をするという仕事を頂きました。いざ倉庫に入ってみると支店にある倉庫の半分くらいが古い建機で埋まっていました。
そこにある建機は修理が追いつかなくなったもの、事業的に使わないもの、安全性が良くないものが多かったので、使わないなら買い取らせてくれ、と頼むと快く了解してくれました。それから倉庫の行脚が始まりました。全国の支店に行くため、夜中に出発し、早朝に現地に到着し、1時間程度で倉庫の整理を終わらせると、次の支店に移動して使わない建機を回収する。1日3箇所程度まわって、夜遅くに自分のヤードに戻る。当時は本当に嵐の日でも雪の日でも関係なく、倉庫を巡っていました。
倉庫を整理した上で、使わない建機の買取りを続けるうちに、Kさんからいろんな相談を受けるようになってきました。「iPadを活用した業務管理システムを導入したがみんなが使いこなせていない」と相談されたので全国の支店を回り、社員にiPadセミナーをしました。
また本部長からは営業マンの販売成績のバラつきが多いという悩みを聞いて、営業管理システムを提案して導入していただくと、みるみる販売成績が向上し喜ばれました。
仕事を取るためにはあらゆることをやってきました。Kさん主催のリース業界の新年バーベキュー大会では、みなを喜ばせるためにスーツで川に飛び込んだこともあります(笑)
Kさんとの取引をきっかけにいろんなリース会社さんや買取り会社さんとお話しすることができ、この業界はまだまだ変えていけるなという実感を持つことができ、問題意識も明確になっていきました。
建機の買取り販売ビジネスから建機の国際オンライン取引プラットフォームへの進化
2011年のMBA修了後、2014年までは建機の買取り販売をしていましたが、この事業を起こすきっかけになったのが建機のオンライン取引プラットフォームを作る必要性を感じたことだったので、2014年からは買取りはしないというポリシーに転換しました。プラットフォームを作って、売り手と買い手を繋ぐのですが、直接我々が仕入れ販売を行うのではなく、売り手と買い手を繋ぐことに徹して手数料を頂いています。
やはり買取り事業とプラットフォームを作るところは分けた方が良くて、色んな方々に出品していただいてこそ良いサービスができてくるので、自分が買取りをして自分の利益のために販売をしていたらこれはフェアじゃないですよね。それでポリシーとして買取りとプラットフォーム、どちらをやりたいかと選択した時に買取りも儲かったのですが、プラットフォームを作ろうと思いました。
世界中の建機が集まるプラットフォームを作りたいと素直に思ったので、そちら側に振り切ることにしたのです。当時は、買取りをすれば採算も良くなり、売り上げも上がると思いましたが、そこはぐっとこらえました。そして2014年にSORABITO株式会社を創業し、中古建機の国際オンラン取引サービス『ALLSTOCKER』を開始していくことになります。
産声をあげる「ALLSTOCKER」。おカネ、人の苦労
『ALLSTOCKER』を立ち上げていくお話をいただけますか?
当初、買取り事業をやっていた時、在庫リスクを負わないビジネスをしていました。仕入れ案件情報をもとに買い手を探して、買い手が見つかってから実際に仕入れ、売っていました。そうすれば在庫リスクがなく原資も少なくビジネスができます。そのような考え方で、買取りサイトを作って仕入れ案件を集め、サイトを通じて買い手が直接買えるほうが良いよね、ということでネットサービスを始めました。僕と現CTOの吉田で創業したのですが、吉田はシステムエンジニアでネットに明るいので、買取りサイトを作ってもらい、SEO対策もして、検索結果で1位になりました。うちでは3つくらいサイトを立ち上げましたが、他に建機売買サイトは少なかったので、ネット検索の結果、1ページに10サイト掲載される中で7件くらいうちのサイト関連で占めたこともあります。
それだけ検索上位を独占すれば、御社に問い合わせが来ますね。
はい、様々なカテゴリーに分けてサイトを作りましたが電話窓口は1個だったので、途中から問い合わせが増加して対応できなくなりました。当時は日本で一番建機売買の案件を抱えていた会社かもしれません。本当に数え切れないほどの案件が集まりました。我々だけでは対応できないので、商品の運搬力のある貿易会社の方に「こういう案件がありますよ」とチラシを配るほどでした。我々がさばききれないせいで「買えない」評判のサイトになってしまうのは避けたかったので、さばける業者に情報を売っていました。
成長する過程で資金繰りの壁などはどのように乗り越えてきたのでしょうか?
資金繰りに関しては、その前の事業でお金を作っておりまして、そのお金には手をつけず、極力私生活を切り詰めて貯めていました。プラットフォームビジネスなので買取りをしなかったとはいえ、資金繰りはかなり大変でした。人と場所と出張費など出費はかさむものです。創業当初は売上もなかったので苦しい時期が続きましたが、ベンチャーキャピタルなどの資金調達はしませんでした。国の助成金等の制度を活用し、自分のお金で乗り越えました。従業員への給料はちゃんと支払いましたが、払った後、自分の分はほとんどなかったですね。
ですから私生活では、言葉にするのも簡単ではないくらい大変でした。特にうちの奥さんは大変だったと思います。切羽詰まっていましたが、会社だけではなく生活費も出さなければいけない。僕が想像しているより遥かに大変だったと思いますが、僕が何も言わなかったので、奥さんも特に何も言わずに、にこりと笑ってくれていました。今考えても、よくやってくれていたと思います。
当初の仲間集めはどのようにされてきたのですか?
創業メンバーの吉田の存在が大きかったですね。吉田は給料がいくらほしいという要望もせずに、このビジネスを成功させようと言って仕事に取り組んでくれました。本当にここまで二人で乗り越えてきたという実感があります。吉田は、SORABITO株式会社創業前の買取り事業をしていた時からずっと関わっているエンジニアです。実は買取り事業をしていた時に事業がうまくいかず一旦解散しました。そして自分ひとりで事業を継続していたのですが黒字化したときに手を貸してほしいとお願いし吉田に戻ってもらいました。
彼は本当に粘り強くて、寝る間も惜しんで夢中で開発し、会社のためにあらゆることをやってくれました。ビジネスを立ち上げた当時から決して安定した生活はしていないと思いますが、それでもやりたいことに夢をかけてきたい、という思いでついてきてくれました。
SORABITO株式会社を創業した2014年の時は名古屋の会社の裏にシェアハウスを作って、そこに4 人で暮らしていました。吉田プラス当時働いていたメンバーの加藤、24歳の一番若い社員もそこに住んでいました。今うちにいる中山(大学院時代の同級生)も一緒にそのシェアハウスにいました。
貧しかったですがみんな根性だけはありましたので、たこ焼き作ったり、焼きそば作ったり、なんとか生きていました。
働く場所を作ろうと言って、車が二台入っていた父のガレージにオフィスを構えました。車を外に出し、ガレージを徹底的に掃除して床を貼って壁を貼って、天井を貼って、ドアを付けて。父の会社の人も巻き込んで、みんなでオフィスを作りました。ただネットが繋がっていなかったので、吉田の最初の仕事はガレージにインターネット回線を引くことでした。最初のうちは吉田にフォークリフトを運転してもらったり、発電機を運ぶ手伝いをしてもらったりもしていました。本当はすごい腕を持ったエンジニアなのに、汗水垂らして働いてくれました。
もう一人、買取り販売事業をしていた時から一緒に買取りをやっていた小澤という人間がいます。その小澤に関しては最初の一週間で辛すぎて倒れました(笑)。ガレージを改装した事務所の二階に寝床を作り、小沢をそこで寝かしました。彼はそこから自分で力をつけて、IT事業の方で活躍してくれています。
困難時でこそ発揮される青木社長のベンチャースピリッツ。 泥臭い営業と工夫で立ち上がっていく「ALLSTOCKER」
壮絶な苦労があったのですね。その後、「ALLSTOCKER」はどのように成長していくのでしょうか?
最初は、様々な人に自分たちの考えているサービスについてヒアリングをしました。サービスを作る際に、いろんなマーケットプレイスを参考にしますが、高額な中古建機を扱うマーケットプレイスに前例がなく、完成形をどういう形にするのかは正解がないので試行錯誤しました。
まずは、お客様の声を聴きながら改善していこうというやり方で開発に取り組みました。吉田が最初に9カ月くらいかけて作ったプラットフォームサイトを出品者に使ってもらいながらフィードバックをもらい改善していました。
リース会社や買取り会社、あらゆる会社に営業して中古建機をサイトに掲載してもらいました。最初はモノが集まらずに苦労したのですが根気強く営業電話をかけ続けました。取り扱いが千台を超えたくらいの頃に案件の募集は一気に楽になりました。“中古建機が千台掲載されている販売プラットフォームです、御社も載せませんか?”というと“そんなにたくさん掲載されているのであればうちも”という会社が増えました。
当時、建機が千台くらいの規模で登録されて世界中からアクセスできる販売サイトがなかったこともあると思います。
ですが平均販売単価で300万円くらいする高価品ですので出品さえすれば買い手がついていた、という簡単な話でもありませんでした。
ネットで高額な中古建機を買うという習慣がない中で、どのように買い手を増やしていったのでしょうか?
やはりそこも最初は泥臭い営業でした。ネットだけではなくリアルも織り交ぜた営業です。「ALLSTOCKER」をネットで知り関心を持った方に実際に足を運んで説明にいきました。英語と日本語のサイトを同時オープンしたのですが、特に英語版への書き込みには苦労しました。英語サイトなので英語で使っていただけるのは良いのですが、英語以外の外国語で問い合わせてくる方も多く、相当苦労しました。
商品故障などのトラブルも発生すると思います。どのように対応したのですか?
鑑定もなければ、決済もなければ、物流もない状態で、情報のマッチングサイトとしてオープンしたので、いろんな問題がありました。故障などのトラブルが発生して出品者のところに問い合わせが行っても対応できないと言われたり、日本語以外では回答できない、ということも多かったです。やはりサービス品質向上のために鑑定、決済、物流の開発は必須でしたので出品する機械の写真掲載を必須にしたり、鑑定、決済、物流という機能を順次構築していきました。
決済が終わってから一時間以内に商品が届く、というレベルを目指して今頑張っていますがサービス品質向上は終わりがないので継続ですね。
「ALLSTOCKER」は今、成長軌道に乗りつつあると思いますが、青木さんが感じている御社の経営課題を教えていただけますか?
まだ少人数の組織ですので人材が不足しています。一人が何役も取り組んでいますが、それは解消しないといけないところだと思っています。国内からの出品量を増やしたいので出品者を開拓できる人材や、海外向けの販売先開拓ができる人材が必要です。海外向けのビジネスは出張などで大変なのですが、やりがいはあると思います。
また鑑定、決済、物流といったフルフィルメントやサービス品質を向上する部門も強化が必要です。
長期的な経営課題としてはよりALLSTOCKERの信用力を高めることです。当たり前ですがお客さまを裏切らないことです。事業が拡大し、忙しくなる中で、お客さまに気にかける時間が少なくなりがちですが、お客さまも困っているわけですからそこで裏切るわけにはいきません。そういう意味で信用力をより高めていきたいです。やはり商売の基本的なところは信用にあると思います。一つ一つの付き合い、積み上げてきた信用を崩さないようにしていきたいですね。
今この少人数のタイミング(インタビュー時は社員17人)の御社に参画する魅力について教えてください。
ALLSTOCKERという事業は世界を変える事業だと思っています。アマゾンで言うと小さな商品に対してマーケットプレイスを作り、扱っている。グーグルは世界の検索窓として機能している。自分たちも世界の仕組みの1つとして建機の流通を変えていけると思っています。この仕組みを世界中に広め、3年後は確実にアジアNo.1になっている会社です。今当社に参画することで世界の仕組みを作ることを体験できる良さがあります。非常に優秀な方、すばらしい方々が集まっているので、そういった方々と一緒に仕事ができるのは良いですよね。彼らは冒険心、情熱があふれるメンバーで、本当にこれまで100年200年続いてきた建設業界を変えて、永く進化し続ける仕組みを作ろうとしています。
当社の社風としては自由活発でめちゃめちゃエネルギッシュです。世界を変えていくことを生きがいとしている人が多いですね。一人一人がリーダーの自覚をもって動いているので、自分がこの会社をリードしている感覚になれます。とにかく情熱あふれている人に来てほしいですね。
青木さん、素晴らしいお話ありがとうございました。
SORABITO(ソラビト)株式会社
https://www.sorabito.com/
- 設立
- 2014年05月
- 社員数
- 21名(2016年11月時)
《 Mission 》
「世界中の明日をつくる」
《 事業分野 》
web・アプリ
《 事業内容 》
働く機械の国際オンラインプラットフォーム「ALLSTOCKER(オールストッカー)」の企画・開発・運営。日本をはじめとした良質な建設機械・農業機械などの「働く機械」を、新興国等、世界中の人々に届けるためのプラットフォーム「ALLSTOCKER」を築き上げようとしています。