AIを“ fun to have” から“need to have” へ

株式会社Nextremer代表取締役CEO 向井永浩氏

今はまだあまり一般に浸透していない対話エンジンテクノロジー。
‘面白いから持つ‘ から ’必要だから持つ‘に意識を変えるにはどうすればよいのか。
AI分野において世界でもトップレベルの技術力を持つ、Nextremerの向井社長に創業の経緯やその強み、さらにAI業界のこれからについてお聞きしました。

向井永浩氏

代表取締役CEO
向井永浩氏

岐阜県中津川市生まれ。金沢大学卒業。2000年大学卒業後、大手国内メーカーにSEとして入社後、シンガポール資本のITベンチャーに転職し海外開発案件に従事。2012年10月株式会社Nextremerを設立。

株式会社Nextremer

株式会社Nextremer
https://www.nextremer.com/

設立
2012年10月
社員数
40人(2017年3月現在)

《 Mission 》
対話エンジンをfun to have から need to have に変える
《 事業分野 》
AI
《 事業内容 》
人工知能テクノロジーを活用した対話エンジンの研究開発

ロボット好きな少年だった小中学時代

アマテラス:

向井さんの生い立ちについて、教えて下さい。

株式会社Nextremer 代表取締役CEO 向井永浩氏(以下敬称略):

岐阜県中津川市で生まれました。家系を10代遡っても、皆岐阜県生まれの農民です。家族構成は父、母、妹、祖父、祖母で、全員公務員でした。父親は市役所の公務員、母親は市民病院の看護婦、妹は岐阜県の先生、妹の夫も岐阜県の先生です。

アマテラス:

なるほど。では、起業家や商売をしている人は周りにいらっしゃらなかったのですね。

向井永浩:

いませんでした。中津川は普通の地方のまちで、兼業農家が多く、公務員か、あとは大企業の工場で働いている人が殆どでした。起業するような雰囲気は全くなく、むしろずっと「公務員になれ」と言われていました。

小学校も中学校も高校も大学も、地方の国公立に通いました。大学入学時に金沢に行った理由は明確で、親から「お金がないから国立大学しかだめ。東京と大阪は生活費が高いからだめ。」と言われ、「では、自宅から通えないところはどこか?」というと、金沢だったのです。

アマテラス:

小学校時代のエピソードは何かありますか?

向井永浩:

小学校時代はいわゆる理系の、よくある“ロボット少年”みたいな感じでした。
今はもう全く問題ないのですが、実は腎臓の病気にかかって小学校1-2年生の2年間入院をしていました。私は元気だったのですが、周りの同世代の子が亡くなってしまうこともあって…。

今から思うとあのことが転機だったのかも知れません。3年生になった時学校に戻ったのですが、皆は九九が言えるのに、私は言えなかったことが衝撃だったことを覚えています。そこで反骨精神のようなものがついたのかもしれません。

アマテラス:

反骨的なことをしたエピソードはありますか?

向井永浩:

従来のゼネコン体質なITエンジニアリングを否定して、やっているところがあるとは思います。「SI(システムインテグレーション)の中で、ゼネコン体質なところが良くない」といったことを指摘することもあります。そういったところを嫌っている人がNextremerに集まっているのかも知れませんね。

大学時代はWebマーケティングサイトを設立・運営

アマテラス:

中学校以降の向井さんはどのようなことされていたのですか。

向井永浩:

中学校も高校もテニス部を頑張りながら、物理と数学が好きでした。
そして、金沢大学に進学したのですが、大学時代で最も衝撃だったのが、1999年、私が大学3年生の頃からだんだんと社会に出ていたインターネットでした。

このインターネットを使って、「物を売ったらいいのではないか」と思い、実際に販売しました。当時付き合っていた彼女の名前が“千秋”だったので、ウェブサイトの名を『サウザンドオータム.com』にしました(笑)。そして、このサイトで友達から集めた古着を売ったら、結構売れたのです。

アマテラス:

1999年頃というと、まだ楽天も規模が小さかった頃ですよね。

向井永浩:

楽天は“マーケットプレイス”という概念を用いて、やっていました。これにはかなり衝撃を受けました。

私はECサイトを個人で細々と運営し、毎日代引きで送る。自宅が物流倉庫みたいになり、入金関係もチェックして本当に骨が折れることでした。商品は結構売れたのですが、2割程しかマージンを抜いていなかったので、儲けはそんなに出ませんでした。その後は就職活動で忙しくなり、サイトは自然消滅しました。

その時に実感したことが、楽天の考えたプラットフォーム戦略の凄さと、「全然敵わない」という思いでした。
自分の中ではサイト運営は楽しかったのですが、私が考えていたことと楽天がしていたことの間にあまりにも大きな差がありすぎて、少し自己嫌悪に陥りました。「僕はこんなことで満足していて一体何なのだ」と。
やっていることはあまり変わらないのに、ある意味衝撃を受けました。

大手システム企業に就職し、SEとなる

アマテラス:

向井さんは理系でしたが、学部卒業後は就職されたのですか?

向井永浩:

就職しました。「とにかく働こう」と思っていたので、大学院に進みたいという思いはありませんでした。また、親からは「公務員になれ」と言われていましたが、それは嫌でした。

『サウザンドオータム.com』の経験があったので、「ベンチャーがいい」という思いもあり、サイバーエージェント等のベンチャーも就職活動で応募し、ベンチャーからの内定も貰っていました。
『サウザンドオータム』の話やその売上のことを話したら、「凄い」と言われてその場で即OKといったような感じでした。しかし、私の根がコンサバティブだったので(笑)、結局大手に就職しました。

そもそも金沢大学がすごくコンサバティブな方が多く、地方公務員になる方も多かったです。また、金沢出身ですごい方も多く、DMMやアパホテルなども石川で起業されています。またEIZOやコマツなども石川発です。そういったところに就職するか、公務員になるかのどちらかでした。

自分もそのような雰囲気に流されたこともあり、結局大手メーカーにSEとして入社しました。そして、名古屋に配属されて、名古屋地区の大規模システムを担当しました。

アマテラス:

クライアントも大きい企業だったのですよね。

向井永浩:

大規模システムのインフラエンジニアでメインフレーム担当でしたので、取引先もとても大きかったです。大企業向けのスーパーハイエンドなシステムで、製造業の24時間、365日常に動いているような感じで、一部でも止まったらラインが止まって大変なことになるのです。結局、ここに5年半勤めました。

インド旅行がきっかけで、シンガポールのベンチャーへ

アマテラス:

その後、シンガポール資本のITベンチャーに行かれましたが、これにはどういった経緯があったのですか。

向井永浩:

特に企業等は関係なく、ただ海外で挑戦したかったのです。

実は大学の卒業旅行で初めて海外に行きました。就職が決まって時間が空いた時に卒業旅行に行くことを思い立ったのですが、周りの友達との都合が合わずに結局一人で行きました。当時まだ海外に行ったことが無く、飛行機も国内線すら乗ったことがなかったのに、初めての海外を一人で行くことになったのです。

海外のこともよく分かっていなかったので妹に電話すると、妹がその時偶然『深夜特急』のインド編を読んでいて、私にインドへ行くことを勧めてきました。私はそれを鵜呑みにし、本当にインドに行ったのです。

そして、「もう2度とこんなところには行かない!」と思いました。カルカッタ等に行ったのですが、強烈でした。カルカッタからデリーまで電車で行ったのですが、辛かったです。予約も全然取れないし、英語も喋れなかったので本当に大変でした。

そんな思いをしたのに、その後社会人になってから「海外にもう一度行きたい」と思ったのです。メインフレーム担当SEはとても忙しく、休日出勤も多く、代休が溜まり突然1週間ほどの休みがドンとくるのです。
旅行に行こうと友達を誘うのですが、予定が合う訳もなく一人で海外旅行に行くことを5年間半続けていました。繰り返し海外旅行に行くうちに、「海外っていいな」と思い始め、「海外で働こう」と思い立ったのです。

アマテラス:

なぜシンガポールを選んだのですか?

向井永浩:

その頃の私は英語が流暢なわけでもなく、国産メインフレーム担当SEという日本のマーケットならではのスキルで、外資で働くことも難しい状況でした。しかし、ベンチャーなら受け入れてくれるかもしれないと思っていました。

また、以前はインド嫌いでしたが、色々な国に行っているうちに「インドほど辛い国はなかった。あそこは意外にすごい国なのだ」と思うようになり、海外そしてアジアに行きたくなってきました。

そこで「インド IT ベンチャー」と検索すると、シンガポール資本の会社が見つかりました。その会社に電話すると、「わかった。来い。」というような話になり、それで行ったのです(笑)。そこでシンガポールや、インドに行きながら楽しく働いていました。

ベンチャービジネスのスピードを目の当たりにする

向井永浩:

全体で50人くらいの規模の会社で、東京にも拠点はありましたが大きくはありませんでした。元々教育事業の会社でしたが、私が入社したのと同時にIT部門を新しく始めました。私はそこの部門の担当となり、シンガポールとインドで開発をやっていました。

この部署はとても自由でしたね。前職の会社とは全くカルチャーも仕事の仕方も異なっていたのですが、そこで「ベンチャーは面白い」と思い始めました。

スピード感も違い、決まったらすぐ実行しますし、「やりたいなら、やってみろ」という風潮もありました。出張申請も「行きたいなら、行って来い」というような感じで、ベンチャービジネスの凄さに驚きました。

何の不満もなく楽しかったので、6年間ほどそこで働き続けました。「ベンチャーは面白い」と心の底から思いながら働いていましたね。

妻にも内緒で、「やるしかなかった」起業

アマテラス:

そういった経験を経て起業をされた訳ですが、思い出に残るエピソード等はありますか。

向井永浩:

起業について分析すると、『大いなる勘違い系』と『やるしかなかった系』があると思うのですが、私は『やるしかなかった系』でした。
当時働いていたITベンチャーがリーマンショックの煽りを受けて、小さなIT部門よりも、元の教育ビジネスに注力することになり、IT部門を閉めるということになりました。IT部門は、一時期は日本の大手にも喰い込んでいたのですが、リーマンショックを機に売上が半分程度に落ち込んでいたのです。

ちょうど子供が生まれる時期だったこともあり、かなりの危機感でした。「どうしよう…」と考えて、個人事業主の延長で、自分で事業をやることに決めました。会社を辞めたことを妻には言えなかったので、内緒でエンジニアとして受託などをしていました(笑)。

アマテラス:

どこかに出勤していたのですか?

向井永浩:

出勤していました。一番初めに登記した時は、少し格好つけてマークシティーにあるリージャスのオフィスを数万円/月で借りていました。ノマドワーカーのような形で仕事をしていました。

アマテラス:

仕事は受注できたのですか?

向井永浩:

その時には英語も得意でしたし、初めの頃は何でもやっていたので大丈夫でした。某テレビ局がインドネシアで企画を立てたところ、人員不足で、インドネシアに行って、色々なことをしてくれる人を募集していました。
私はその下請けの下請けのような形で月額20万円ほどで受注し、インドネシアに行きまくりました。妻は出張でインドネシアに行っていると思っていました。

収入は多少不安定になりましたが、妻も働いていたので基本的にお互いの収入を知りませんでした。月20万円は入ってきていたので、ギリギリ回せていました。私が家賃を払い、妻は固定費以外を払うという感じでしたので、家賃さえ払っていれば、ばれなかったのです。
こうやって、8か月くらいはずっとばれずにやっていけていました。

ところが、8カ月くらい経って、妻に友達から「あなたの旦那、起業したらしいよ」という話が回ってきて、それでばれました。ただ、その頃には他にもいくつか仕事を受注して売上も増えていましたし、妻も家賃さえ入っていれば文句は言いませんでしたね。

開発力を武器に、AIの研究開発受託に進出

向井永浩:

その後、受託ビジネスをやるなら、私自身は研究開発が好きで、出身も研究系だったのでその分野をやりたいと思い、AI分野の研究開発を受託しようと思い立ちました。

アマテラス:

AIに関するスキルや技術は元々持っていたのですか?

向井永浩:

私自身はありませんでした。当時人工知能研究予算は大手しか持っていないので、「大手からAI研究受託を頂き、win-winになるにはどうしたらいいか」と考えました。

たまたま参加したセミナーで、この図を使って説明している人がいました。この図は、要はチームの多様性について表しているのですが、横軸のアライメントがhigh、高いということは皆が近い、同じことをしているということを表しています。右側に寄っている時は皆がバラバラだということを表しています。そして、縦軸がイノベーションの価値を示しています。
表の右側は、全体のアベレージは低いですが、たまにぽろぽろと凄いのが出てくる。大手企業は左側になっている事が多く、それなりに結果を出すものの、あまりイノベーティブなことは起きないというわけです。

自分達のチームをこの図の右上に当てはまるように作って、開発力を持ったら、大手もそこを求めているので、私達と組む意味があるのではないか考えました。

インドに研究開発拠点を設立。そして、大手研究者達との出会い

向井永浩:

その部分を目指そうとなった時、「迷ったらワイルドにインドだ」と思って、インドに自社の研究開発拠点を作りました。そうしたら、大手企業からも声が掛かり、仕事を頂けるようになってきました。

まずは受託から始めて、次第に共同研究もするようになりました。また、自分達のエンジンも開発しているうちに、色々な企業から声が掛かるようになって、今日に至っています。自社のエンジンもプロモーションしているので、そちらもけっこう取り入れてもらっています。

アマテラス:

研究開発でも、特にAIの開発を進めたのはなぜですか。

向井永浩:

私自身元々AIが好きだったこともありますが、一番の理由はホンダと出会って、ホンダの研究者の方達の本気の姿勢に驚かされ、心酔したことです。彼らを「本当に凄い」と思い、「ということは、やはりAIが凄いのだ」ということになり、AIをやりたいと思いました。彼らは対話システム等についてずっと考えて開発に取り組んでいるので、「彼らのために一緒に仕事をしたい」と思ったのです。

また、その頃に偶然、初代オデッセイ開発責任者 元ホンダ副社長・小田垣邦道さんという方に会い、その方の経営塾で色々な感銘受けました。それで一気にホンダスピリッツに感銘を受け、「僕たちがやるのだ」という思いを強くしました。

「AI対話システムをビジネスにする」という強い思い

アマテラス:

とはいえ、創業してから4年間で紆余曲折があったと思います。向井さんのCEOとしての意思決定時の悩みや、どんな壁をどのように考えて乗り切ったのか等、お話し頂けますか。

向井永浩:

事業を始めた背景に、「今までの人工知能対話システムの研究者の思いを無駄にしたくない、絶対に裏切りたくない」という思いがあったので、「どうかしてビジネスにしたい」という気持ちがありました。今も、人工知能は“need to have”ではなく、“fun to have”ですよね。「あれば面白い」というレベルです。何としても“need to have”にしなくてはいけない。

当然、資金繰りが苦しい時期もあったのですが、行けるところまでなるべく借入でいこうという方針でした。初めは信用金庫にとても親身に助けていただき、融資をして頂きました。

そうしている内に、大手企業との取引が多いこともあって信用を得やすく、メガバンクや地方銀行との繋がりも持つことができました。そんな事もあり外部資本を調達せずに今までやってこられました。大きな先行投資が必要なわけではなく、エンジニアと研究者が全てなので、そこにすべて投資をしてきました。

高知にも研究拠点を設置。現地の優秀な人材が集まる

アマテラス:

優秀なエンジニアや研究者を集めることもとても大事だと思いますが、そこはどうされたのですか。

向井永浩:

根がエンジニア系なので、「とにかくエンジニアドリブンでやろう」ということと、「変に隠さずに、オープンにする」という方針を掲げて、発表や学会に積極的に参加しているうちに、エンジニアの方が集まってきました。

それと高知の拠点は大きかったです。そこが出来たことによって、人が集まってきました。

アマテラス:

御社のエンジニアの方が高知に戻ることをきっかけに、拠点を作られたのですよね。

向井永浩:

そうです。いなくなったら困るので、すぐ高知に行って、「いいよ、ここでやろう」と決めたことから始まりました。
東京は優秀なエンジニアの絶対数は多いですが、採用側もとても多い。でも、高知だと絶対数は少なくとも、採用側は多くないのです。ですので、四国の本当に優秀な人が集まってきています。

新卒もいますが、中途の方も多いです。ひたすら知能系の事を独学でやっていた人や、大手SI系に入ったものの全然楽しくなくて転職してきたような人などもいます。東京に派遣されたけれど理不尽さを感じて、当社を探し当ててUターンで来た人などもいます。また東京からのIターンの方も多いです。

実は、高知で私達は少し尖ったことを言っています。当社に転職する人はSI出身者が多く、自らの経験からゼネコン体質SIの理不尽さや風紀を真っ向から否定しています。高知にはSIの末端会社もあるのですが、「ニアショア的な下請けポジションでは、地方創生ではなく地方維持であり最終的には駄目になる」といった尖ったことを言い続けていたら、尖った人が集まるようになってきました。

生意気なことを言っているのですが、それもあって高知ではフロントエンドが強いエンジニアが集まっています。それに比べて東京にはバックエンド/理論が強いエンジニアが集まってきています。それでバランスが取れています。

また、イベントにたくさん出るというのも有効です。
ビジネス系でいうと、アメリカのサウス・バイ・サウスウエスト(毎年3月にアメリカ・テキサス州オースティンで行なわれる、音楽祭・映画祭・インタラクティブフェスティバルなどを組み合わせた大規模イベント)に無理やり出展し続けています。お金もかかりますし、準備も大変ですが、ドラゴンボール世代の私からすると、やはり困難を通じてレベルアップするというところがありますので(笑)。

対話システムの認知を高めるため、アパホテル社長に直談判

アマテラス:

サービス開発の中で、壁はありましたか。

向井永浩:

サービス開発の壁は、常にありますが、中でも突き抜けて大変だったのは、一般の人から見て分かりにくい対話システムを、いかに分かりやすく認知頂くかという事でした。

それを打開したのはアパホテルとの取組みでした。アパホテルの元谷社長にモデルになっていただき、Slush Asia 2016にてホテルフロント業務のデモシステムを展示しました。そのことで、「そういうふうに対話システムは使えるのだ」と一般の方にも理解されるようになりました。

また同時期に2016年3月のPioneers AsiaでFinalist企業に選ばれることができました。世界中のスタートアップの中で、上位24社として残ったのです。

この件で注目を集め、認知して頂くことができましたが、実はSlush Asia 2016は出場することは決めていたのですが、アパホテルの開発は元谷さんの許可も取らずに勝手に始めたのです。そこで、元谷さんがインドに行くということを聞きつけて、インドまで会いに行きました。

アマテラス:

アポは取ってなかったのですか。

向井永浩:

無かったです。知り合いにお願いし、元谷さんがインドのレストランで食事する会に呼んで頂きました。「Slush ASIAでは、アパホテルの元谷社長の人工知能化でいきます」という話を一瞬しました。その後、再度元谷さんにSlush ASIAの直前に会いに行き、「こういうのを作ったので、会場に来てください」と頼んだら、来てくれることになったのです。

サービスの知名度が上がった、とても大きなきっかけだったので、本当にアパホテル元谷社長には感謝しています。いずれ本導入で恩をお返ししたいと考えております。

アマテラス:

そして、対話エンジンをどんどん強化されながら今に至っている訳ですね。

今求めているのは、対話テクノロジーの事業化人材

アマテラス:

最後に、「Nextremerは、こういう人に向いている」といったことをお話しいただけますか。

向井永浩:

Nextremerにはベンチャーの中でも技術力が相当高いエンジニアが集まっていて、かつ研究開発パートナーは超一流会社の偉い方です。その中で、「これからどうサービス化していくのか」ということが大切です。

対話エンジンがある程度確立してきた今、このエンジンをどうやってマーケットで“need to have”にしていくかという課題が見えてきている中で、そこを事業として推進していける方がいいと思います。

アマテラス:

「AIビジネスで社会をつくっていきたい」といった気持ちがある方でしょうか。

向井永浩:

対話テクノロジーで社会をつくっていきたいという方ですね。対話テクノロジーには無限の可能性があり、そこを本当にビジネスに変えていくことが好きな人がいいです。

フラットかつグローバルな組織

アマテラス:

Nextremerの現状も踏まえて、ここで働く魅力や、御社ならではのやりがいは何ですか。

向井永浩:

エンジニアの視点ですと、最新テクノロジーを扱うということと、フラットな組織であることです。それとグローバルであるということもポイントです。グローバル拠点もこれから増やしていく予定で、アメリカやアジアを考えています。そういったことに挑戦したい人は、とても向いていると思います。

アマテラス:

社風はどんなものですか。

向井永浩:

フラットな組織ですので、社風はいい意味でも悪い意味でも自己管理・自己責任が強い世界です。上からの締め付けのようなものは全くありません。誰かから「何かをしろ」と言われることはありません。

これからの世界で、コンピューターとの『対話』という2文字は必ず社会に浸透していきます。問題は、それをどう社会に浸透させていくかということなのです。あらゆる分野で音声対話の世界はすぐそこに来ています。

アマテラス:

向井さん、本日はありがとうございました。

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アマテラス編集部

「次の100年を照らす、100社を創出する」アマテラスの編集部です。スタートアップにまつわる情報をお届けします。

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株式会社Nextremer
https://www.nextremer.com/

設立
2012年10月
社員数
40人(2017年3月現在)

《 Mission 》
対話エンジンをfun to have から need to have に変える
《 事業分野 》
AI
《 事業内容 》
人工知能テクノロジーを活用した対話エンジンの研究開発